「障害年金における手続」を考えるー研究と実践を繋ぐ試みとして
神奈川大学 橋本宏子
目次
⑷ 藤原論文に立ち返ってー市民(障害年金の請求者)の権利は行政主体の決定に先行するのか、それとも行政主体の決定が権利に先行するのか
⑸ 藤原論文に立ち返ってー「全体としてとらえる」ことと「人間が人間として生きる権利」
⑹ 藤原論文に立ち返ってー「年金給付をめぐる処分に対する不服申立の制度」の位置づけ
3、「事前手続」と「新しい調和」―雇用支援手当にみる「資格に依拠する権利体系」
⑴ 「人間が人間として生きる権利」(憲法13条)と社会保障法の関係
⑷ 社会保障法の「権利」の柔軟性と法的姿勢―その権利保障の方向性の上に立って
2,「人間の生存を保障する権利概念」のもつ固有の基準を深めるために
⑵ 「有限的変動因子」を分析するー「人間が人間として生きる」ことのもつ捨象できない「個別性」や「可変性」
⑷ 「社会保障の権利体系」と「有限的変動因子」―「初診日」を素材に考える
⑵ イギリスにおける「新しい運用アプローチ」と「資格に依拠する権利体系」
⑶ わが国を顧みてー「義務付けられた再検討」の導入の契機を探る
Ⅴ章 「障害年金」の伝統的な構造と人権概念との「齟齬」の克服を求めて
⑷ 「いわゆる社会政策」と労働力の資本に従属する関係を保障する人権体系
⑸ 社会保険が対象とする要保障事故と「稼得能力の喪失」のむすびつき
⑹ 保険の技術的要素とその変容―維持されていること、変化していること
3,障害年金と人権ー「身体性をもった人間の生命全体」への関心
⑴ 歴史的にみた社会保障法の法的性格→貧困化の契機としての「障害」
(2) 「社会保険」(障害年金)とノーマライゼーションの理念
⑶ 近年の変化―障害年金制度の「変容」(個別性の顕在化)とその背景
⑶ 社会生活(日常生活)を考える視点―労働と社会生活(日常生活)とのむすびつき
⑵ 現代の「人間の尊厳」の思想(生存のための『自由』)とリベラリズムの根底にある自由
⑹ むすびにかえてー障害者権利条約に言うインクルージョンを考える
1 「人間が人間として生きる権利」(生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利)について
⑴ 本稿(橋本)では、主に「問題の所在を明確にする」という理由から、「障害基礎年金」を念頭に論旨を展開している。
⑵ 本ジャーナル2号にはすでに、手続に関する論文として、藤原 精吾、安部 敬太、嘉藤 亮の三氏の論文が掲載されている。本稿(橋本)は三論文を所与の前提としている。
⑶ 本稿(橋本)は、研究論文ではない。「研究と実践を繋ぐ」という視点にたち、「障害年金」の手続を考えるにあたっては、「こんな発想はどうだろうか」「こんな考え方も必要ではないだろうか(出来るのではないだろうか)」という筆者(橋本)の思いを提示しようとしたものである。特にⅤ章については、その観が強い。
⑷ さりながら上のような「筆者(橋本)の思い」を、実際に文章を通して伝えることは難しい。本稿(橋本)では、筆者の微力を補う意味で、各章の初めに、(その章の)ポイントを提示した。
⑸ なお本稿(橋本)では、その趣旨に鑑み、引用文献の注の記載方法は簡略化している。例えば、本ジャーナル1号掲載の拙稿(「補論 河野論文を受けて 浮かび上がる<近代>への関心―2つの視点を通して生存権を考える」)で言及した事項については、「ジャーナル1号」参照といった記載にしている。種々、ご寛恕頂ければ幸いである。
⑴ 1章 本稿の視点
ウエヴジャーナル2号掲載の三論文の総論部分にあたる藤原論文を、筆者(橋本)の視点から整理・確認することによって、本稿(橋本)への誘いとしている。
⑵ Ⅱ章 社会保障の権利を考えるーイギリス法から得る手がかり
イギリスの行政手続法の法理を参考としながら、「障害年金」の手続のもつ意味について述べている。その具体的な「あり様」の説明にあたっては、(一昨年の障害年金法研究会 裁判事例検討部会で取り上げられた)イギリスの「雇用支援手当」の請求から決定に至る手続を参考としている。
⑶ Ⅲ章 社会保障法の基本問題-法の柔軟性と「手続」
普通「権利」は、厳格で明確でなければならないと考えられている。しかし「障害年金」にも関係する「人間が人間として生きる権利」は、(ケース・バイ・ケースで判断されなければならない要素を含むので)「固定的静止的な物の権利(財産法的思考方式にもとづく権利)」のような「『権利』概念の厳格的規定性」をもたない(もてない)。Ⅲ章は、この点について具体的に述べている。「人間が人間として生きる権利」の概念の特殊性は、「障害年金」の手続の「あり様」にも関係してくる。
⑷ Ⅳ章 わが国の障害年金における手続過程をどの様に捉えるか
イギリスでいわれるMandatory reconsideration(「原処分庁に義務付けられた再検討」又は「原処分庁による再検討の義務付け」の意と解する)を参考にしつつ、本章では(「障害年金」の請求後、相応の期間内に原処分庁の応答がない場合、もしくは原処分庁が棄却あるいは一部認容の決定を行った場合において請求人が希望する場合には)、原処分の再検討が制度上(当面は行政慣行上)原処分庁に義務づけられることを提案している。さらに出来る事ならその再検討の場が、(当該請求人の生存のための要求と保険者の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする「公開審理の場」として設定されることを提言している。「公開審理の場」の設定は、障害年金における手続過程が、請求者の「権利」を、プロセスを通じて具体化していく「場」(過程)としての有効性をさらに深めることになると考えるからである。
⑸ Ⅴ章 「障害年金」の伝統的な構造と人権概念との「齟齬」の克服を求めて
初めに「障害年金」の手続を考える際に、根底のところで関係してくる問題 すなわち「(障害年金を含む)社会保障法の法的性格とは何か」、またその延長線上にある「『障害年金の目的』とは何か」に関連するところで話を少しだけ展開している。その上で、社会保険制度のもつ「定型性」と障害年金の請求者や受給者の「身体性をもった人間」としての「個別性」や「可変性」の関係に触れている。これらのことは、「障害年金」の伝統的な構造と近年、新しい広がりをみせている人権概念との間の「齟齬の一例」を示しているように思われるからである。その上で最後に、社会生活(日常生活)とは何か、「人間の自立」「人間の主体性」「自己決定」の話に言及している。さらにこれらのこととの関連で、日本国憲法に話を向けている。その上で、日本国憲法は根源的な部分においてリベラリズムの立場に立ち、「自律的な人間像」を根底にすえていること、これに対し最近では「ケアの倫理」という言葉に象徴されるような「個の生存にとって必要とされる他者の存在」を重視する主張が様々に展開されてきていることに具体的に触れた上で、これらの主張が日本国憲法のリベラリズムと緊張関係に立っていることを指摘している。憲法との関りもまた、「障害年金」の手続を考える際に、根底のところで関係してくる問題であると考えたからである。本章は、上で述べてきた諸点について若干の考察を行っているが、多くは障害年金法研究会として今後考えていく課題ではないか、との思いも籠めて結びとしている。
⑴ 「人間が人間として生きる権利」とは何かー人々の自由と生存の関係
① 本稿(橋本)は、「障害年金における手続」を「人間が人間として生きる権利に支えられた手続」と位置付けた上で、すべての話を展開している。したがって、まずは本稿(橋本)にいう「人間が人間として生きる権利」とは何か を説明しておくことが重要となる。
➁ 「人間が人間として生きる権利」の「説明」は煩雑になるので「注記」にまわしているが、「説明」の要は、「自由と生存の関係をどう理解するか」にある。自由と生存の「位置関係」についての理解は、憲法13条の憲法全体に占める位置、特に憲法25条の「生存権」との関わり、ひいては障害者権利条約の理解にも深く関係している。
③ 本稿(橋本)は、社会モデルや人権モデルにはあまり言及していないが、上記➁の理解は、実は両モデルについての考察にも深く関係している。理念型の社会モデルでは障害のある人が日常生活や社会生活に制約を受けるのは、多数派である非障害者が自分たちにとってだけ便宜なように社会構造を構成してきたためであると考えられている。これに対し人権モデルからは(上の指摘を認めた上でなお)、障害のある人には機能障害に基づく「個体としての苦悩」があり、それらは社会モデルが指摘する「社会構造や従属性、差別」をなくすことによっては解決できない問題であると指摘されている(日本障害法学会編 障害法 創刊号所収の池原毅和論文参照)。筆者(橋本)も上の人権モデルの「指摘」を重視し、社会モデルと人権モデルの間には、位相の相違以上のものがあると考えている。またその根拠は、本稿(橋本)にいう「人間が人間として生きる権利」さらにいえば「注記」で言及する「人間の尊厳」の理解やⅤ章末尾で触れる「全体(社会あるいは集団)と個(人)」の関係をどのように捉えるかに深く関係している、と考えている。
⑵ 本稿(橋本)の考える「障害年金における手続」
上⑴において、本稿(橋本)は「障害年金における手続」を「人間が人間として生きる権利に支えられた手続」と位置付けた。では、本稿(橋本)の考える「障害年金における手続」とはどのようなものであろうか。
本稿(橋本)では、「障害年金における手続過程」を以下4点から総合的に把握している(本稿では、とりあえず事前手続を主たる対象とした)。
① 障害年金における手続過程は、請求者の「権利」をプロセスを通じて具体化する「場」(過程)である。
➁ (上①のことは、イギリス法において)制度的手続<institute proceeding>と称されるものに通底している。
③ (上①でいう「『権利』をプロセスとして具体化する」という表現は)、障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを意味している。日本の現状においては、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」にウエイトを置いたところで、「障害年金の手続」を考えることが必至と考える本稿(橋本)の立場からは、このことはことの他重要となる。
➃ 「障害年金の手続」を通じて、「国民の生存の『権利』性と行政の『決定』の間に何らかの実質的な一種の新しい調和を見出す」という本稿(橋本)の視点は、障害年金における手続過程が、上③でいう「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを踏まえた上で使用する。
以上⑵の把握は、イギリスの審判所が、単なる不服審査機構であるだけでなく、請求者の「権利」をプロセスとして具体化する「場」として捉えられてきたこと、しかもイギリスにおける社会保険分野における審判所の発展が、福祉国家の出現と関連しており、なかでも1911年の国民保険法との関係が強い、ことに興味をもち検討してきた結果に依拠している(主にⅡ章参照)。補足すれば本稿(橋本)は、以下3点への問題関心とそれについての一応の考察を通じて、上⑵の理解に至っている。すなわち、⓵ 社会保険(ひいては社会保障)分野における審判所の発展が福祉国家の出現となぜ関連しているのか、また⓶ 社会保険(ひいては社会保障)分野における審判所の役割が、単なる不服審査機構であることにつきるわけではなく、「『権利』をプロセスとして具体化する『場』」として把握されてきたのはなぜなのか」⓷「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」とは具体的にどういうことなのか、ということである。
結論的にいえば、上記⓵⓶⓷の問題は、社会保障法にかかる「権利」の特殊性に関係している。その「権利」の特殊性は、1⃣公共信託論(国家の国民への義務/「財源の裏付け」)の観点から、あるいは2⃣「人間の生存を保障する権利概念」が、(所有権のような)固定的静止的な物の権利(財産法的思考方式にもとづく権利)とは異なる「柔軟性」(「個別性」「財源の裏付け」等)をもつことから導きだされる(主にⅢ章参照)。
すでに述べたように本稿(橋本)は、研究論文ではない。しかし本稿(橋本)が、積年にわたり多くの先達から筆者(橋本)が学んできたことを土台としていることもまた事実である。中でも本稿(橋本)は、故 下山瑛二教授(行政法 英米法)の諸論文や教授から直接指導を受けたことが礎となっている。また本稿(橋本)における「人間の尊厳」の理解については、下山瑛二教授の「生存権」の理解とともに、故 沼田稲次郎教授(労働法 法哲学)から受けた教示も深く関係している。
沼田教授の人間の尊厳の思想は、「生存権的基本権」を根底に据えたところで憲法13条を捉え、同条を日本国憲法の基本的人権体系の中核に位置づけている。このことは、抽象的な自由権は主体的に否定されるが、(沼田教授の言葉をかりれば、抽象的な自由権は)「生存権の主体となることによって現実に自由になる」ことを示唆している。ここで沼田教授のいう「生存権」は、(経済的基本権の意味を超えて)「人間存在の極限的事態」に対する「人間の回復運動」との関りで捉えられていることに注目しておきたい。これらのことは、世界人権宣言を系譜のひとつとする障害者権利条約にいわれる「人間の尊厳」の理解、同条約を「自由権と社会権の混成」と捉える見解の批判的検討とも深く関係してくると筆者は理解している。
とはいえ、両教授の深淵な論稿の意義を筆者(橋本)がどれだけ正確に理解できているのかについては、筆者自身今ももって自信がない。また両教授の論考が本稿(橋本)の礎となっていることは間違いないが、両教授とも社会保障法(もとより「障害年金」法)の専門家ではないことや両教授が活躍された時代の思想状況と現状との相違を踏まえると、両教授の論考と本稿(橋本)を繋ぐためには、幾多の筆者(橋本)自身による「媒介項」の構築が必要であったことも事実である。
このようにみてくると、これを正確な意味で「引用」といえるかには様々な意味で躊躇も感じるが、以下に本稿(橋本)が、その座右に置いてきた著作をあげておくことにしたい。なお、直截の引用箇所は、本稿(橋本)本文(注)に記載することとする。
下山瑛二「人権の歴史と展望」 法律文化社 1972年
下山瑛二「人権と行政救済法」 三省堂 1979年
下山瑛二「沼田理論と『基本的人権』論」 『沼田稲次郎先生還暦記念論文集 現代法と労働法学の課題』所収 総合労働研究所 1991年
ポイント―藤原論文から確認すること 「人権」という言葉、「権利」という言葉 本稿(橋本)にいう「人間が人間として生きる権利」の理解 藤原論文に立ち返って考える事
まず、本稿(橋本)と同じく「手続」について論じたジャーナル2号掲載の藤原論文の意義を確認することから、記述を進めることにしたい(本稿ではすべて敬称略とさせて頂く)。
藤原論文は、「市民の立場」から「その手続を見直し、制度的、組織的体制に溯って、それが果たしてあるべき社会保障制度としての年金制度になっているかを検討」している。藤原自身が指摘するように、「市民の立場」から「障害年金における手続的権利」に言及した「論考」は、その重要性にもかかわらず、多くはない。本稿(橋本)はまず、藤原論文の「市民の立場」を重視する視点に注目したい。このことは、本稿(橋本)が、人間の「主体性」と「生きる」という人間の最低必要条件を基本において、「人間が人間として生きる権利」を考えることと共通するものに思われるからである。
藤原論文はまた、「(論文を通じて提示された)問題点が、制度改革につながることを期待したい」と述べている。
本稿(橋本)は、「提言書」(「障害年金 2025 年制度改革への障害年金法研究会からの提言書」、以下「提言書」という)を視野に入れつつ、しかし各自の個人的見解をもとに執筆された「ジャーナル3号掲載の諸論文」のひとつである。本稿(橋本)が制度改革を見据えた藤原論文に注目する第二の理由は、こうした本稿(橋本)の位置づけと関係している。今しばらく藤原論文に言及しつつ、そこから本稿(橋本)の「方向性」を見出していくことにしたい。
年金を受給する「市民の立場」から、年金制度を検討するという藤原論文の視点は、何よりも「人間が人間として生きる権利」を重視するものであると筆者(橋本)は理解した。このことは藤原論文が、社会保障法研究を先達した小川政亮のいう「人権としての社会保障」(あるいは「権利としての社会保障」)の含意を重視しつつ、「手続的権利を取り上げる意味」に言及していることからも窺える。
ここで藤原論文から少し離れて、「人権」という言葉、「権利」という言葉の意味内容に簡単に触れておきたい(注1)。「人権」擁護という表現は、
⓵「人間」が「人間」として生きるために自然発生的に生じる要求そのものを念頭において使用される場合と
⓶ 国家の実定法制度として規定された「人権」を念頭において使用される場合がある。
上記⓵で言われる人間としての本源的自然発生的要求は、「人間」の主体性と「生きる」という人間の最低必要条件を核として把握されている。小川政亮のいう「人権としての社会保障」(あるいは「権利としての社会保障」)という表現には、多分に上記⓵の意味が籠められている。
上記⓶の意味での「人権」は、一定の歴史社会において、諸処の社会的要求を法規範化することによって出来上がった制度的概念であり、日本国憲法を例にあげれば、11条から40条の規定に加えて、人権に密接不可分の意義を有する9条(戦争の放棄)が「人権」規定ということになる。
⓵ 本稿(橋本)では、人間としての本源的自然発生的要求の発露を「人間が人間として生きる権利」と表現している。「人間が人間として生きる権利」は、「生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利」であり、自由の保障を根底で支えることによって、具体的な自由の実現をめざすものである。関連下記⓻
⓶ 「人間が人間として生きる権利」は、「生存権」に他ならない。しかし現実の「生存権」は、上記⓵の意味ではとらえられていない(傾向をもつ)。「生存権」は、通常は憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と結び付けられ、「所得保障」(非金銭給付に対する金銭給付の意。以下同じ)にウエイトを置いたところで捉えられている。
⓷ 筆者(橋本)は、所得保障(金銭給付)としての「障害年金」に係る問題も、稼得能力の喪失(失われた所得)に対する保障としてではなく、「身体性をもった具体的人間の生きる権利」(上記⓵参照)の視点から、いいかえれば「障害とともに生きる」ための所得を保障する(金銭を保障する)という視点から捉えてはどうかと考えている。「人間が人間として生きる権利」いいかえれば「生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利」の含意は、障害者権利条約17条にいう「障害をもつ人の心身がそのままの状態で尊重されること」(Protecting the integrity of the person)の重要性とも共通するもののように思われる。
⓸ 「生存権」は、自然法思想のもとでは上記⓵に近いところで捉えられていた、と指摘されている。なぜ変わってしまったのだろうか。その理由についてここでは、資本主義社会が成立する過程の中で、基盤となっていた「人権」概念の正当性の社会的論拠が無視され、その結果近代西欧の人権概念は、抽象的な「自由権(一般)」を基本とする概念となり、そこに若干の「生存権」的要求を充たすための「社会権」を加味したものとなってきたことだけを指摘しておきたい(注2)。あえてこの点に言及する理由は、下記⑤に関係する。話を進めたい。
⓹ 国連憲章・世界人権宣言等々の国際人権規範を系譜とする障害者権利条約は、「障害者と他の者との平等を基礎とすること」に力点をおき、各権利規定において、自由権的側面と社会権的側面を併記する形式が定式化されていることを除けば、「生存権」についての言及はない。このことからすれば障害者権利条約は、上記⓸で言及した「自由権を中心とし、それに若干の社会権を加味した構造をとる、特殊近代西欧社会の所産である『人権』概念」を継受している、とみることもできそうである。
⓺ 他方障害者権利条約においては、人間の尊厳を最上位規範として(3条a)、「障害者の固有の尊厳の尊重」(1条後段参照)や「生命に対する権利」(10条)等々を、現代の「人間の尊厳」の思想としてどう具体化していくかが期待されている。
⓻ 上記⓺のことをわが国に引き付けて考えれば、日本国憲法13条を基軸として、現代の「人間の尊厳」の思想を、例えば憲法25条との関係においてどのように捉えようとしているのかが、問われてくることになる。
話が難しくなってきた。上⑶を補足する記述は<注記>に譲り、話を藤原論文に戻したい。
藤原論文は、「受給権者である市民目線で年金行政を見直すこと」で見えてくるものは、「多くの市民が情報の不足や、窓口の不適切な対応によって年金を受けられなかったり、制度の不知のため十分な年金を受給できなかったりする不都合が現に起こっていることである」と述べている。そして「市民個人がその不当性を口に出しても『年金制度はこうなっている』、『法律と行政が決めている範囲でしか年金は受給できないのであきらめるように』と説得されてきた歴史と現状がある」と述べている。
上のような実態を、藤原のいう「市民の立場」にひきつけて言い換えるならば、本来は「人々の生存の権利保障のための一手段にすぎない」はずの「行政主体の決定」が、「主客転倒」し、「国民の生存の権利」が「行政主体の決定に依拠している事実」を示している、といえないだろうか。端的にいえば、権利は決定に先行するのか、決定が権利に先行するのか、という根本問題に突きあたることになる(注3)。
藤原はまた、「社会保障としての公的年金を、情報の提供、権利と手続についての相談、助言、請求の援助(アドヴォケイト)、不服申立までを全体としてとらえるようにしたい」と述べている。ここで藤原が、「全体としてとらえること」を重視していることは、「手続的権利」を、「人々が生きていく現実」に出来るだけ近づけた形で把握したいという藤原の「思い」と表裏一体をなしている、ように筆者(橋本)には思われる。そのことは、制度的に規定された「人権」(権利)概念を、「人権」(権利)保障要求との関連において把握しようとしている、ということでもあろう。
先取的にいえば本稿(橋本)では、「障害年金における手続」は、(同じ「手続」であっても例えば)公正の確保と透明性の向上を通じて、国民の権利利益の保護に資することを目的とする行政手続法(平成五 11・12 法88)とは「違った意味での(保障しようとすることの層を異にする)手続」であり、言い方を換えれば「人間が人間として生きる権利」という根源的・包括的権利により明確に支えられた手続であり、「人間が人間として生きる権利」の生成過程(実現過程)にかかる手続である、と考えている。
「公的年金の受給」に至るまでの過程を「全体として」把握するという藤原の視点の中に、本稿(橋本)の捉える「障害年金における手続」の理解に通じるものを読み取るのは早計だろうか。
藤原論文は、「年金給付をめぐる処分に対する不服申立の制度」は、手続的権利としても捉えることができるという視点を明確にした上で、社会保険審査会について考察を進めている。本稿(橋本)は、障害年金に関係する事後手続過程については直截にはとりあげないが、Ⅱ章においてイギリスの審判所の「立ち位置」に言及するなかで、我が国の障害年金に関係する事後手続過程(具体的には「社会保険審査会」)のあり様にも思いを馳せていきたいと思う(注4)。イギリス法では行政手続の法的規制の問題は、審判所(事後手続)の手続を包摂せずに考えることはできないと言われている。そこには上の藤原の指摘とも通じるものがあるようにも窺える。話をⅡ章に移したい。
(注1)下山瑛二「人権の歴史と展望」 法律文化社 1972年を参照している。
(注2)前掲下山p28,p93参照
(注3)下山瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」p185『人権と行政救済法』三省堂 1979年所収
(注4)「社会保険審査会」については、橋本宏子「研究ノート 社会保険審査会における『裁判外紛争解決』」神奈川法学41巻2号・3号(2008年)所収ならびに橋本宏子「社会保険審査会における『裁判外紛争解決』」日本社会保障法学会編 社会保障法24号(2009年)所収を参照されたい。
ポイント―福祉国家の出現と審判所、「公共信託論」と社会保障、手続/「権利」を創り上げる「場」、(国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に求められる)一種の新しい調和、「資格に依拠する権利体系」
イギリス法では行政手続の法的規制の問題は、審判所の手続(事後手続)を包摂せずに考えることはできないと言われている(注1)。
イギリスは大陸法系諸国の行政裁判所と異なり、行政分野ごとに専門的知識と能力をもった別個の審判所を発展させてきたが、社会保険分野における審判所の発展は、福祉国家の出現と関連しており、なかでも1911年の国民保険法との関係が強い、といわれている。
しかもイギリスの審判所の役割は、単なる不服審査機構であるだけでなく、(不服申立者の)「権利」を、プロセスを通して具体化する「場」としても捉えられており、この点にイギリス法の特色があると指摘されている(注2)。
本稿(橋本)にとってイギリスの審判所の話は、⓵ 社会保険(ひいては社会保障)分野における審判所の発展が、福祉国家の出現となぜ関連しているのか、また⓶ 社会保険(ひいては社会保障)分野における審判所の役割が、単なる不服審査機構であることにつきるわけではなく、「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」として把握されてきたのはなぜなのか」 ⓷「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」とは具体的にどういうことなのか、に関連して特に興味深い。
上の問題には、「公共信託論」が関係しているように筆者(橋本)には思われる。「公共信託論」について簡単に触れておきたい。
信託という概念は英米に生まれたものであるが、それを国政に応用すると、「政府は、人権保障のために国政を運営し、国民の福祉を増進こそすれ減価させてはいけない」という法理になる(日本国憲法前文における「国政は国民の厳粛なる信託による」という表現は、ロックの政治権力の信託の法理に由来するものであり、国民主権というもうひとつの憲法原理とともに、国政を運営する礎を構成している。ここにも「公共信託論」(国政信託の法理)と国政との関りをみることができる)。
さて「人権保障のために」国政を運営するということは、ひらたくいえば国家が「国民ひとり ひとりの生命・生存を守る」ということに通じてくる。他方「国民の福祉を増進こそすれ減価させてはいけない」という法理には、信託者である国民から受託された(納税された)財源(資金)を減価させないように、換言すれば「総体としての国民」の不利益にならないようにその権限を行使する義務も包含されている。
上のように捉えたとすると、次のようなことが指摘できないだろうか。
19世紀の「夜警国家」の理念のもとでは、「社会関係は人びとの自由意思で処理されるべきもの」であった。しかしその理念はやがて崩れ、行政が社会関係に介入し、一定の社会的経済的な利害関係を調整していくようになる。「夜警国家」から「福祉国家」への移行である。イギリスにおいては1911年の国民保険法の成立等を通じて、「福祉国家」への移行が具体化されてくることになったといわれている。
こうした状況のもとイギリスでは、国民から国政を信託された国家は、一方では(コモン・ローがその一環に位置づけてきた)ひとりひとりの「弱者」の権利を擁護するという伝統的な精神を保持し続けながら、他方では総体としての国民の不利益とならないように「国家の本質的な行政的性質」を維持するという「極めて難しい『立ち位置』」に立たされることになった、と考えられる。いいかえれば、(国家が財源を拠出する)社会保険ひいては社会保障という「新しい法分野」においては、この「極めて難しい『立ち位置』」にどう向き合えば、国家は国民への義務を果たすことになるのか」が重要な課題になってきたということである。
結論的にいえばその難しい「立ち位置」の一環を構成するものとして発展することになったのが、「審判所」ということになる。具体的には、(社会保障法領域における)「審判所」は、国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に何らかの新しい調和を見出す、いわば「新しい法観念」による問題処理の場として位置づけられることになる(注3)。
先に藤原は「市民個人がその不当性を口に出しても『年金制度はこうなっている』、『法律と行政が決めている範囲でしか年金は受給できないのであきらめるように』と説得されてきた歴史と現状がある」と述べていた。この指摘は、現在の法的状況のもとでは、「国民の生存の権利が、『法律と行政が決めている範囲』内での権利」になっており、「年金を受給する権利」があると主張する市民が想定する「権利」との間に、「ズレ」が生じていることを示唆している。上で触れたイギリスの審判所機構は、(好意的にみれば)この「ズレ」を放置せず、そこに「新しい調和」を見出す、いわば「新しい法観念」による問題処理の場として考えられたもの、ということになろう。
上のように把握した上で、ここで「新しい調和」という言葉についての本稿(橋本)の理解を明らかにしておきたい。
唐突のようだが、リンカーンの「人民の人民による、人民のための統治」という言葉は、上で触れた「公共信託論」を基盤にしているといわれている。まさに「人民の人民による、人民のための統治」の裏付けがなければ、「(総体としての)国民の生命・生存を守るための国政運営」は、単なる口実となり、「国民の生存の『権利』性と行政の『決定』の間に何らかの新しい調和を見出す」という作業は実を伴わないことになる。
イギリスにおいては、上で触れた「公共信託論」が、実際に基本的人権体系に対する(少なくとも一定の)論理的前提をなしているように窺われる。日本の現状はどうであろうか。
日本の現状をイギリスと同じように捉えることは、残念ながら難しい。
わが国において「障害年金の手続」を再考し、「国民の生存の『権利』性と行政の『決定』の間に何らかの実質的な『新しい調和』を見出していく」ためには、「市民」と行政の「非対称性」に着目し、藤原が指摘するように「市民」を年金受給に係る手続の出発点に位置づけ、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」の方によりウエイトを置いたところで、(国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に)「一種の新しい調和」を求めていくことがことの外重要になってくる、と本稿(橋本)は考えている。
障害年金における手続過程は、(「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」の方によりウエイトを置くという言葉が示唆するように)「請求者のニーズの一種の確認手続」である。上でいう本稿(橋本)の「一種の新しい調和」という言葉は、これらのことを踏まえて使用されることになる。
話をわが国に移す前に、本稿(橋本)では、社会保険の「事前手続」に焦点をあて、もうしばらくイギリスについて、「新しい調和」の問題が、どのように処理(対応)されているのかをみておくことにしたい。
上において、イギリスの審判所機構(事後手続)は、行政と市民の間に生じた「ズレ」を放置せず、新しい調和を見出す、いわば「新しい法観念」による問題処理の場となっている、と一応整理した。
ではイギリスの社会保険(ひいては社会保障)の「事前手続」においては、「新しい調和」の問題は、どのように処理(対応)されているのだろうか。
(2022年12月に実施された)障害年金法研究会 裁判事例検討部会(以下本章において「研究会」という)における河野正輝報告「イギリスおよびオーストラリアの労働能力アセスメントの動向」の主題は、「手続」にあったわけではないが、関連でイギリスの社会保険の「事前手続」についてもそれが垣間見える内容であった。
そこで以下では河野正輝報告(以下、本稿(橋本)においては断りなき限り「河野報告」という)に沿ったところで、イギリスの社会保険の「事前手続」の要点を述べてみたい(なおジャーナル3号掲載の河野正輝「英・米・豪の障害年金制度における労働能力判定の動向」<以下、本稿(橋本)においては断りなき限り「河野論文」という>は、研究会での報告を発展・展開させたものであると理解する。ぜひ参照されたい)。
研究会において河野から提示された「イギリスの雇用支援手当」(ESA<Employment and Support Allowance, ESA> 以下「雇用支援手当」という)に係る関連資料からは、「雇用支援手当」の請求から決定に至る手続が、イギリスの他の多くの社会保障施策の場合と同様、「資格に依拠する権利体系」に依拠していることが窺われる。もっとも河野報告は、「労働能力アセスメント」に関連したところでの報告であったことから、「資格に依拠する権利体系」については特段の言及はなかったが、ジャーナル3号掲載の河野論文にみられる「(1)労働能力判定の枠組み 雇用支援手当の受給資格を得るためには、申請者は、労働能力の制限について(すなわち現在の健康状態又は障害が労働能力を制限しているか否かについて)の判定を受けなければならない」(要約 橋本)との表現は、「資格に依拠する権利体系」を示唆している(下線は橋本。以下「本稿」において同じ)。「資格に依拠する権利体系」については、後にあらためて説明することとし、その前に以下では、イギリスでの「労働能力アセスメント」(以下、「アセスメント」ともいう)について、本稿(橋本)に関わるところに限定して、簡単に触れておこう。
「労働能力アセスメント」(The Work Capability Assessment)とは、申請者(請求者)の健康状態や障害が、彼らの労働能力にいかに影響しているかを検討するものであり、アセスメントは(申請者が雇用支援手当の)給付を受ける権利(entitlement)を有するか否かを決定する上で重要な役割を果たすものとなっている(資格の決定は、処分庁であることに注意。後記参照)。「資格と権利」を考える上では、上の指摘の特に後段部分に注目したい。
ⅰ 受給資格の決定にかかるアセスメントの過程
アセスメントの実施は、民間会社に委託され、認定医療専門職によって認定される(河野報告は、図にいう「受給資格の決定にかかるアセスメントの過程」を中心とするもであった)。認定医療専門職は、処分庁に意見書を提出する。(the decision maker/The National Insurance Board)
認定医療専門職の責務は、申請者の状態が労働能力に与える影響を判定し、決定処分庁に対して意見書を提出することである。その見解が申請者自身の機能障害の理解と異なる場合は、とりわけ十分な説明を付した意見書を提出することになる(河野報告による)。
処分庁は、すべての受給要件<公的年金年齢未満であること、労働を制限する障害又は健康状態にあること(アセスメントはここに関連)、被用者又は自営業者として働いてきたこと、国民保険(保険料)を、通常、直近の2~3年につき拠出していること>を検討し、雇用支援手当(ESA)の受給資格の決定を行うことになる。このように処分庁が行うのは、「受給資格(entitlement)の決定」(determining entitlement to benefit)であり、「権利(right)の決定」という言葉は使われていないことに留意したい。
なお河野論文では、「雇用支援手当の受給資格要件(Eligibility)」と表現されているが、このことは上の理解と矛盾するものではないと考える。
ⅱ 裁量行使に対するイギリスの伝統的な考え方
またこの過程を検討するにあたっては、イギリスでは「『裁量行使は、(行政機関によって)公正かつ司法的な方法<fair,judicial,manner>で行われる』という『一定の慣行』の存在と、またその慣行が実際に行われているという認識がある」ことに留意したい(注4)。
ここで、「上訴」(appeal)に触れておきたい。イギリスでは、国民保険上訴審判所(NIAT)が給付金(雇用支援手当)の請求および(または)その他の事項に関する処分庁(The National Insurance Board)の決定に不満のある人からの上訴を受領、処理、審理、および決定することになっている。
河野論文によれば、2011年から2013年の間に「労働に適している」と認定された人の約35%が独立した審判所(Independent Tribunals)に上訴して、その上訴の約33%が救済されている、という。なお、2013年―2014年には、ESA(雇用支援手当<Employment and Support Allowance, ESA>)に係る処分に対して232,639件の上訴が提出された、という。
さらに上のような動向を受けて、2013年10月、強制的な再認定(Mandatory reconsideration 河野訳)の手続が雇用支援手当を含む労働年金省管轄の全ての給付に導入された、ということである(本稿(橋本)では、以下Mandatory reconsiderationを処分庁による「義務付けられた再検討」又は「再検討の義務付け」という)。この本稿(橋本)にいう「再検討の義務付け」が導入される前は、労働年金省の処分に不服のある者は、直ちに審判所および裁判所(HM Courts and Tribunals)へ上訴することができたが、「義務付けられた再検討手続」の導入によって、労働年金省の処分に不服のある者は、まず労働年金省に再検討を求めなければならないことになった(再検討前置主義)、と指摘されている。その結果、2013年以降、再検討による一部見直しもあって上訴の総数は激減している、ということである。原処分庁による再認定の結果になお不服がある者は、第1段階の審判所へ上訴することができるが、社会保障諮問委員会による報告書によると、2015―2016年の審判所における救済率は58%(母数の不服申立件数は不明)と高い数字を示している、と河野論文は指摘している。
なおイギリスでは2007年、審判所、裁判所及び執行法(Tribunals, Courts and Enforcement Act 2007)の成立により、行政救済制度の画期的な改革が行われている。関連資料を見ると2007年法のもとでは、国民保険上訴審判所(NIAT)という表現は変化しているようにも窺われるが、ここでは「国民保険上訴審判所(NIAT)」という表現を使用し詳細は今後の考察に委ねたい。
上でみてきたように、「雇用支援手当」の請求から決定に至る手続過程においては、受給資格(entitlement)という言葉は散見されるが、権利(right)という言葉は使われていない。
先に「雇用支援手当」の請求から決定に至る手続は、イギリスの他の多くの社会保障施策の場合と同様、「資格に依拠する権利体系」に依拠していることが読み取れる、と述べたのは上記のことに関係している。
それでは、「資格に依拠する権利体系」とはどのようなものだろうか。「資格に依拠する権利体系」とは、「個々の事案における決定は、しばしば『裁量』に依存しているが、全機構は資格(entitlement)、すなわち、権利(right)に基礎づけられている」と説明されている(注5)。
「資格に依拠する権利」は、「国家の実定法制度として規定された『権利』」を念頭においているが、「資格に依拠する権利」において注目されるのは、「全機構は権利(right)に基礎づけられている」けれども、直截に「権利(right)を保障」する、という構成はとられていないことである。「資格に依拠する権利」が示唆していることを図式化すると以下のように表現できようか。
なおアメリカでの話だが、entitlementについての説明の中で、(entitlementは)「rightのように自己完結しない」という指摘がみられることは、上図の「全機構は権利(right)に基礎づけられている」(いいかえれば「権利が、プロセスを通して具体化される」)という指摘と関連性をもつもののように思われる。
先に(Ⅲ章の初めに近いところで)、イギリスでは「公共信託論」のもと、(国家が主として財源を手当てする)社会保険ひいては社会保障という「新しい法分野」においては、国家は「極めて難しい『位置』」に立つことになり、その「位置」をどう体現し、国家の「立ち位置」を保つか(国家の国民への義務を果たすか)に苦慮することになったことを指摘したが、「資格に依拠する権利体系」もまた(審判所を通じた作業と同じく)、国家の難しい「立ち位置」の結果を体現する「社会保障の権利保障のひとつのあり方(姿)」を提示しているようにみえる。
「資格に依拠する権利体系」については、「行政の裁量行使」の問題を初め、わが国が参考にするにはいくつかの検討課題がある、ように思われる。こうした事情から、本稿(橋本)は、「わが国の障害年金の手続(当面は事前手続について検討)」を考える場合にも、「資格に依拠する権利体系」よりむしろイギリスの審判所(事後手続)を参考にしたいと考えている。いずれにせよ、「資格に依拠する権利体系」の効用と限界についてはここでは深堀せず、Ⅲ章では「社会保障法の基本問題」である「法の柔軟性」という本稿(橋本)の本筋に関わるところに焦点を絞り、話を進めていきたい。
(注1)下山瑛二「イギリス行政手続法の法理」p170『人権と行政救済法』三省堂 1979年所収
(注2)下山瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」p203~204参照 『人権と行政救済法』三省堂 1979年所収
(注3)同 p204~206参照
(注4)同 p201
(注5)同 p187
ポイントー「人間が人間として生きる権利」(憲法13条)と社会保障法(憲法25条)の関係、社会保障法における権利(概念)の特質/社会保障法における「権利」(保障)の(あり様の)特質、社会保障の権利の柔軟性と財産権保障とは「異なる基準」の必要性、「異なる基準」としての「手続」、社会保障の権利と有限的変動因子(多数の不確定要素)、「障害年金の手続」からみた「障害認定基準」への関心、「障害年金における手続」の総合的把握
Ⅱ章の終わりで触れたように、Ⅲ章では「社会保障法の基本問題」である「法の柔軟性」という本稿(橋本)の本筋に関わるところに焦点を絞り、話を進めていくことになる。
ところで本稿(橋本)は、「障害年金における手続」を「人間が人間として生きる権利に支えられた手続」と位置付けた上で、すべての話を展開している。
したがって、話の本筋に入る前に、「人間が人間として生きる権利」と社会保障法の関係についてあらためて「整理」しておきたい。
すでに本稿(橋本)では、「人間が人間として生きる権利」については、「まえがき、1章、注記」において、それぞれの「目的」に応じて要約、言及している。
ここでは、すでに指摘してきたことを踏まえながら、特にⅢ章で扱う「社会保障法」を念頭におきながら、本稿(橋本)にいう「人間が人間として生きる権利」について、箇条書きで再整理しておくことにしたい。
⓵ 本稿(橋本)では、憲法13条を日本国憲法の基本的人権体系の核規定としての「生存権的基本権」規定と位置付ける。
⓶ 上⓵のことは、「現代における人間の尊厳の思想」の集中的表現が憲法13条にあるとし、憲法13条の規定のされ方の中に、「自由権的基本権」の意味だけでなく、積極的に生存配慮する「生存権的基本権」が含意されているという理解を背景としている。
⓷ 「現代における人間の尊厳の思想」は、単なる「天賦人権の思想ないし啓蒙期自然法思想」の「再確認」という意味だけではなく、「(人間存在の根源である生命を保障する観点を完全に捨て去った)ファシズム戦争の体験を経て世界が深く自覚させられた具体的な政治的・社会的原理」である。
⓸ 憲法13条に集中的に表現される日本国憲法の核規定としての「生存権的基本権」
は、本稿が提示する「人間が人間として生きる権利」(生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利)と同義と考える。
⓹ 憲法13条と25条の関係は、要旨以下のようである。憲法25条は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と結び付いた社会保障制度として体現されている。社会保障の制度体系は概略、社会保険・社会手当・社会福祉・公的扶助の各領域から構成され、障害年金制度も社会保障制度の一環に位置づけられている。
本稿(橋本)の理解に従えば、「障害年金」の意味内容を検討するにあたっては、憲法13条に体現される「生存権的基本権」の意味するところを重ね合わせたところで、憲法25条を位置づけていくことが求められることになる。例えば所得保障(金銭給付)としての「障害年金」に係る問題の検討も、稼得能力の喪失(失われた所得)に対する保障としてではなく、(憲法13条を基軸に据えたところで)「身体性をもった具体的人間の生きる権利」の含意を吟味検討しながら、「障害とともに生きる」ための所得を保障する(金銭を保障する)ことの内実を捉えていくことに力点が置かれることになる。
本稿(橋本)の主題である「障害年金における手続保障」の考察においても、上の視点は貫徹される。例えば「障害年金における手続保障」の問題は、憲法 14 条・ 31 条等に基づく平等権ならびに適正手続の問題ともいえるが、本稿の立場からは、これらの憲法規定の根底に、憲法13条に体現される核規定としての「生存権的基本権」を基軸に置いて問題を捉えていくということになる。それはどういうことだろうか。かつて社会保障法研究の泰斗である小川政亮は、社会保障の権利(憲法25条の生存権)を実体的権利、手続的権利、自己貫徹的権利から捉えたが、「障害年金における手続」保障において「生存権的基本権」(憲法13条)を基軸におくことの実質的な意義は、小川のいう「自己貫徹的権利」を「生存権的基本権」(憲法13条)の視点から捉え直し根底においたところで、憲法 14 条ならびに31条を解釈することに近いものがあるといえようか。
また本稿(橋本)は、Ⅱ章の冒頭近くで、「障害年金の手続」過程においては「市民」を年金受給に係る手続の出発点に位置づけ、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」の方によりウエイトを置いたところで、(国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に)「一種の新しい調和」を求めていくことの重要性を指摘したが、この「指摘」の背後においても、憲法13条に体現される核規定としての「生存権的基本権」の存在が念頭に置かれている。
Ⅱ章では、社会保険に関係する審判所の発展が、イギリスにおいては福祉国家の出現と関連していることを出発点として、社会保障法にかかる「権利」(保障)の(あり様の)特質を、国家の「立ち位置」(国家の国民への義務)との関係から考えてきた。
ここでは、社会保障法における「権利」(概念)の特質に触れておきたい。この意味での特質は、次のようなことにある。すなわち、
ⅰ (社会保障にも関係する)「人間の生存を保障する権利の概念」は、生きている人間(とその生活)を前提とすることから、(所有権のような)固定的静止的な物の権利(財産法的思考方式にもとづく権利)と同じようには捉えられない。権利性の有無が、その権利保障の方向性の上に立って、ケース・バイ・ケースで判断されなければならない側面をもつからである。「権利」の柔軟性という言葉は、このことを表現している。
ⅱ 「権利」の柔軟性ということからして、「人間が人間として生きる権利」の概念を捉えるためには、「固定的静止的な物の権利(財産法的思考方式にもとづく権利)」とは異なった基準が必要になってくる、と考えられる。それでは、「異なった基準」とは何であろうか。
「異なった基準」の具体的なあり様は、「生存権」(Ⅲ章では、本稿が提示する「人間が人間として生きる権利」の意味で使用する)中心の法体系に関係する事案ごとに、様々な形態をとることになろうが、本稿(橋本)において、「異なった基準」の基軸になるのは「手続」であると考える。
このように考える理由のひとつは、イギリスにおける(事後手続である)「審判所」あるいは(事前手続において取り入れられている)「資格に依拠する権利体系」においては、請求人の「権利」(right)は、当初から明確なものとして捉えられているわけではなく、一定のプロセス(手続)を通じて、結果として初めて(否認される場合も含め)確定的なものとなる。このことは、(障害年金を含む)社会保障に関する給付請求手続においては、(社会保障法の「権利」の柔軟性故に)、「給付請求手続自体が『権利を実質化していく』重要な構成要素」となっていること、そしてそのことが、「社会保障法の特質のひとつであること」を示唆しており、また本稿(橋本)において、「異なった基準」の基軸になるのは「手続」であると考える大きなゆえんとなっている。
すでに触れたように、「生存権」中心の権利概念においては、その「権利」の柔軟性ゆえに、その権利保障の方向性の上に立って、その法的姿勢をいかに保持するかということが重要となる。本稿(橋本)は、この点をどのように自覚しているのか。これまで述べてきたことを踏まえてあらためて確認しておきたい。
本稿(橋本)は、「障害年金の手続」においては、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」(1章参照)を年金受給に係る手続の出発点に位置づけたところで、(国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に)「一種の新しい調和」を求めていくことがことの外重要と考えている(Ⅱ章参照)。しかしそれは、以下のことを前提としている。すなわち
本稿(橋本)は、「障害年金における手続」を「人間が人間として生きる権利」という根源的・包括的権利に支えられた手続であり、「人間が人間として生きる権利」の生成過程にかかる手続として捉えようとしている。このことから、障害年金の請求手続過程は、「受給権者の権利を実質化していく」過程であり、「『障害年金給付』の実質的な保障」を担保する過程として構成されなければならない。その意味で障害年金の請求手続過程は、「市民」の「自然発生的に生ずる要求」を出発点とするが、その権利性の有無が、ケース・バイ・ケースで判断されなければならない場合があるために、「『権利』を、プロセスを通して具体化する」ことが求められてくる。障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることや上にいう「一種の新しい調和」という言葉は、これらのことを踏まえて使用されることになる(Ⅱ章参照)。
上で述べたように、社会保障法にかかる「権利」は、2つの特質(以下⓵⓶)をもつ。
つまり、社会保障法にかかる「権利」の特質は、⓵ 国家の「立ち位置」(国家の国民への生存保障義務)との関りにおいてだけでなく、⓶ 「人間の生存を保障する権利概念」のもつ(「財産法的思考方式にもとづく権利概念」とは異なる)固有の特質(「権利」の柔軟性)とも関係している。
すなわち社会保障法は、<「権利」(保障)の(あり様の)特質>と<「権利」(概念)の特質>という<2つの特質>を内包しているといえる。
そのイメージは、以下のように図式化できるかもしれない。参考のために提示し、以下の考察への架橋としたい。なお「図」にいう「多様な有限的変動因子」は、以下の考察に関わる問題である。あらかじめ、指摘しておきたい。
先に本稿(橋本)は、「人間の生存を保障する権利」の概念は、「固定的静止的な物の権利(財産法的思考方式にもとづく権利)」とは異なった基準でしかとらえられない、とした上で、本稿(橋本)において、「異なった基準」の基軸に据えるのは、「手続」であると述べた。またこのことに関連し「『人間として生きるということ』は本来多様な要素を含んでおり、(人間の生存を保障する権利は)『これだ』という形で厳格に決めつけることが難しい」とも述べた。
以下では、上でいう「多様な要素」を、仮に「有限的変動因子」と表現し、国民の生存の「権利」性と「有限的変動因子」の関りを、具体的にみていくことによって、社会保障法の「権利」のもつ「柔軟性」への理解を深めていきたいと考える。
本稿(橋本)は、所得保障(金銭給付)としての「障害年金」を、「身体性をもった具体的人間の生きる権利」の視点から、いいかえれば「障害とともに生きる」ための所得を保障する(金銭を保障する)という視点から捉えてはどうかと考えている。このような本稿(橋本)の視点からすれば、個々人のもつ「個別性」や「可変性」を無視したところで、個々の障害者が「人間が人間として生きる」ことの保障を考えることはできないことになる。
広く国際人権法の流れをみても、例えば「子どもの最善の利益」が、best interest of the childrenではなく、best interest of the childと表現されていることは、一人ひとりの人間がもつ「個別性」や「可変性」を無視したところで、「人間が人間として生きる」ことの保障を考えることはできないことを示唆している。
正確にいえば「個々の当事者の特性に応じた権利(自然発生的要求)」は、その折々の時代背景を踏まえつつ、なお一人ひとりの人間がもつ「個別性」や(身体的 社会的状況の変化に応じて変化するという意味での)「可変性」を重ねあわせたところで浮上してくのではあるいまいか。
河野論文が次のように述べていることは、上①との関連からも重要と考える。
イギリスの判定手続から得られる示唆の1つとして、社会的障壁と個々の障害者に対するその影響を、身体的機能障害の定型化と同様に定型化することには困難が予想され、当面、社会的障壁とその影響の基準化ではなく、社会的障壁の障害者への影響を個別に判断することが可能な手続きの導入(手続の基準化)を検討する必要性を挙げることができるかもしれない(「英・米・豪の障害年金制度における労働能力判定の動向」)。
ⅰ 人権モデルの指摘するところ
障害者権利条約が前提とする障害の理解については、「~社会構造が是正されても、障害のある人には機能障害に基づく心身の苦痛や衰弱、余命の相対的な短さや死の不安などの個体としての苦悩がありうる」ことを踏まえ、理念型の社会モデルを超えて人権モデルを提示する見解がだされている(注1)。
ⅱ 障害年金と「障害のある人の心身の苦痛や衰弱その他の個人の心身に生じる苦悩」
ここでは上ⅰの問題に、社会モデル・人権モデルの話に直截かかわるところで深入りする余裕はない。ただ、次のことを指摘しておきたい。
あらためて、になるが本稿(橋本)は、「市民(障害をもつ人)の立場にたつこと」を出発点とし、「市民(障害をもつ人)」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」にウエイトを置いたところでその生存の「権利」性をとらえ、「障害年金の手続」を考えようとしている。その場合、「障害をもつ人」の「自然発生的に生ずる要求」はひとり一人さまざまだが、人権モデルが指摘する「障害のある人の心身の苦痛や衰弱その他の個人の心身に生じる苦悩や生理的なレベルでの制約の問題」も、「障害をもつ人」の「自然発生的に生ずるひとり一人さまざまな要求」と深く関係しているといえないだろうか。つまり、「障害のある人の機能障害に基づく心身の苦痛や衰弱、死の不安などの個体としての苦悩」もまた、「障害年金の手続の出発点にたつ市民(障害をもつ人)の「自然発生的に生ずる『個別性』や『可変性』をもつ要求そのもの」に重ねあわせていくべき問題のように思われる。「障害のある人の心身の苦痛や衰弱その他の個人の心身に生じる苦悩」は、「医療的、福祉的対応を要する領域の社会構造の改革」の問題であるだけでなく、障害年金そのものにも深く関係するもののように筆者(橋本)には思われる。
ⅲ 判決にみる「原告の不安」への言及
1型糖尿病障害年金訴訟<東京>において裁判所は、原告について「重症低血糖や高血糖に対する不安を抱えながら、これらが生じないように、常に、食事、行動、仕事などに関して慎重な配慮を要する生活を強いられるということ等からすると、生活への影響は、~3級が想定するものより大きいものと評価すべきである」と判示している。このこともまた、(裁判所の意図はともかく少なくとも結果としては)「障害のある人の機能障害に基づく個体としての苦悩」を、「障害年金の手続の出発点にたつ市民(障害をもつ人)の「自然発生的に生ずる『個別性』や『可変性』をもつ要求そのもの」に重ねあわせた判断に近いものになっている、ようにみえるがどうだろうか(注2)。
ⅳ 「障害年金実務ハンドブック」から読み取る「障害のある人の機能障害に基づく個体としての苦悩」と障害年金の関り
障害年金の手続の出発点において、「障害のある人の機能障害に基づく個体としての苦悩」を、市民(障害をもつ人)の「自然発生的に生ずる『個別性』や『可変性』をもつ要求」に重ねあわせていくことの必要性は、「障害年金実務ハンドブック」に掲載された「いくつかの事例」に関する記述(解説)からも読み取れるが、その詳細は省かざるをえない。
ここでは障害をもつ人々が、日々の生活において考えたり、読書をしたり、外気に触れたり、働いたり、誰かと話したりする中で、心身の苦痛や衰弱、死への不安(生きることへの動揺)等々とバランスをとりながら、その人なりの生活の質を維持していくことに対して「相応の配慮」を必要としていることに、上の記述(解説)を通してあらためて気づかされることだけを確認しておきたい。
そしてそのことは、数値化・類型化しにくい「生きづらさ」を要求に重ねあわせ(反映させ)、「相応の配慮」を具体的なものとして関係者が共有していくためには、エビデンスを求めるだけでなく、ナラティヴな手法を活用することの必要性をも示唆している。
かつて朝日訴訟最高裁判決(傍論)において多数意見は、「健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴って絶えず向上発展するものであり、多数の不確定要素を総合考量してはじめて決定できるものである。したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的裁量に委されており、~」と述べた(注3)。上の指摘は、生活保護基準に関するものだが、「行政庁の合目的かつ専門技術的裁量」と「有限的変動因子」の関係を考える上でも、(「多数意見への賛否」とは別に)無視できないものを含んでいる。障害年金の「給付決定」に関係する多様な「有限的変動因子」(多数の不確定要素)は、(障害年金給付にかかる)行政主体の判定基礎資料の中にも存在し、しかも判定基礎資料は多くを行政庁の合目的かつ専門技術的裁量に依拠して解釈され、あるいは策定されている、と考えられるからである。
しかしながら「有限的変動因子」とされているものは、すべて「行政庁の『合目的かつ専門技術的裁量』に委ねなければならないもの」なのだろうか、裁量に委ねざるをえない場合においても「行政庁がどのような要素をどのように考慮してその決定にいたったのか」を明らかにすることが、必要なのではないだろうか。考えるべきことは、さしあたりこれらの諸点へと向かわざるをえない。
ⅰ 社会保障財源の有限性
「市民」の「需要(ニーズ)」の保障にあてうる社会保障の財源には、(「国民所得」といった要素を考えても)有限性という要因が働き、しかもたえず変動するところの要素が働いている(注4)。
ⅱ 給付額や給付対象年齢等に係る財源問題
㊀「有限性という要素」を考慮した「土台」の確立の必要性
年金の給付額や給付対象年齢の設定等の大きな課題を考えるにあたっては、まさに「「国民所得」といった要素に規定された社会保障の財源が問題になってくる。しかし社会保障財源の調達や安定的運営にかかる多くの重要課題について、国民は判断できない状況にあるのが現状である。
㊁「有限性という要素」と財政民主主義
上のような現状は、給付額や給付対象年齢の設定等の議論を実質的に展開できる「土台(財源についての情報)」の確立が、国民の側からみて不安定であることを示している。「土台」がある程度具体的にみえてこなければ、国民は社会保障の財源のもつ「有限性という要素」を具体的に判断できないことになり、結果給付額や給付対象年齢等の決定において、国家(行政主体)の主張に事実上、従わざるをえないことになってしまう。
財政は財源を調達する「財政権力作用」と調達した財源を管理・使用・処分する「財政権利作用」に分けられるが、「国の財政は、主権者である国民に由来するものであり、国民の意思に基づいて処理され、国民全体の利益、幸福のために運営されなければならない」とする財政の民主化ないし財政民主主義の具体化が求められる。そこには、財政民主主義と「公共信託論」の響き合いも感じられる。
㊂「保険者の役割及び責任と国の権限及び責任」を峻別するー「有限性という要素」をより「明確化」するために
社会保障の財源のもつ「有限性という要素」を判断する際に、国民が主体的にそして出来るだけ具体的な視点を見出していくためのひとつの手立てとして、「(障害年金を含む社会保険の)保険者の役割及び責任と国の権限及び責任」を峻別することも重要と考える。
わが国においては「保険者の役割及び責任と国の権限及び責任」が同一視される傾向にあるが、その峻別は、「社会保障財源の調達と安定的運営」ひいては社会保障の財源のもつ「有限性という要素」をできるだけ「明確化」し、国民がその是非を判断していく上でも資するところが大きいように思われる。伊奈川秀和が、「保険者の役割及び責任と国の権限及び責任」について上の点について述べていることは重要と考える(注5)。
「障害年金の手続過程」においても、「行政の決定」を担う当事者を「保険者と国の役割」に分けて位置づけたところで考えることが本来なのではなかろうか。
㊃「権利としての社会保障」の主張と「社会保障の財源の有限性」を念頭におくことは矛盾するか
時折、市民が社会保障上の権利を主張する際には、「社会保障の財源の有限性」を考慮する必要はないのではないか、という指摘に出会う。確かに「社会保障の財源の有限性」を理由に、自らの「権利」主張にある意味での「自主規制」を懸けることは必要ない。しかしそのことと「権利としての社会保障」の内実を考える際に、「社会保障財源の有限性」を考慮に入れることはまた別の話である。「社会保障の権利を権利たらしめているその同一の根拠がまさに権利の限界を画する根拠」(注6)なのである。
年金給付額や給付対象年齢の設定等が問題になる場合には、「国民所得」といった要素に規定されるレベルでの社会保障財源が直截に念頭に置かれることになる。
これに対して、(障害の「程度」や「状態」の判断に間接的に関係していると思われる)社会保障の財源問題は、「障害年金の手続」過程においては、法令や行政主体の判定基礎資料(例えば障害認定基準)に反映され、さらには法令や通達の解釈を通じて当該市民(請求人)の権利に影響を及ぼすことになろう。だからこそ「財政の民主化ないし財政民主主義の具体化」は、「障害年金の手続」過程において、市民(障害年金の請求者)が行政と対等に対峙できるための手立てとしても重要な意味をもつ、と考える。
「有限的変動因子」が関係する問題には、「財源の有限性」や「人間が人間として生きる」上での「個別性」「可変性」の視点からだけでは十分に説明されないものが含まれているように思われる。
一例をあげれば、「初診日」の問題もその一つである。現行制度を前提としたところで、障害年金に係る「初診日」とは何かを考えていくと、それ(初診日)は、「社会保障の『権利』の柔軟性」(Ⅲ章の初め参照)との関係において表出してくる「有限的変動因子」のひとつの姿を示しているように思われる。少しだけ説明しておきたい(注7)。
⓵ 「障害の原因となった傷病にかかる初診日」は、事実としては、1点(特定された日)として存在する。その意味では、初診日は柔軟なものではない。
⓶ しかし実際には、初診日の特定が難しい場合がある。ことに初診日から長期間経過して請求を行う場合にはその傾向が強まることになる。
⓷ 法令の規定からすると(注8)、初診日は<何年何月何日と特定できなくても>、<それぞれ要件を充足している加入要件と納付要件>の中(一定の領域内)にあることが確認できればよい、ことになる。
⓸ 実際には、上⓷でいう「一定の領域内」に存在するかどうか に関連して「初診日」は、「有限的変動因子」としての色彩をもつことが少なくない。しかも初診日が「一定の領域内」にあることを証明する資料として、どのような資料が認められているか、また資料の何を根拠に、初診日の有無が判断されるのかについても一義的ではない。初診日を「証明」する資料の拡大や充実が求められているのもこの辺の事情に関係している。
⓹ しかも司法や行政は、法令を根拠として、初診日は、受給3要件(加入要件、受給要件、初診日要件)のいずれにもかかわるものと解釈し、初診日を特定するこ とが受給権発生の要件であるとみているのが実情である。
⓺ ⓹のことを根拠として行政(保険者)は、初診日は請求者が特定、証明する必要があるとして、「初診日」の記載がない場合には、請求を却下している現状がある。そこからは、本来は「人々の生存の権利保障のための一手段にすぎない」はずの「行政主体の決定」が、「国民の生存の権利」に先行する実態が浮上してきている。
問題解決の糸口はどこに求められるだろうか。イギリスでいう制度的手続の発想は、その糸口を示唆しているように思われる。具体的にいえば、請求人の「権利」(right)の具体化に大きくかかわる「初診日」を、当初から明確に特定されたものとして、捉えるのではなく、一定のプロセス(手続)を通じて、結果として初めて(否認される場合も含め)確定的なものにしていくことである。手続は、請求人の主張する「初診日」と保険者が自らの判定基礎資料に基づき主張する「初診日」をすり合わせ、そこに合理的な結論を見出していく過程(権利実現の過程)ともいえるだろう。そこでは保険者は、保険者自身の判定基礎資料に基づく保険者の考える「初診日」を提示する義務(一種の「応答義務」あるいは争点義務ともいうべきものか)を負うことになる。
「初診日」の記載がない場合はもとより、「障害年金を請求する側は、障害年金が欲しいとさえ言えばよい」という考え方にも、イギリス法の顰にならえば、請求人は「資格(entitlement)の決定を受けるべき地位にあるもの」として、「受給資格の決定手続」のスタートラインに立つ(全機構は権利(right)に基礎づけられている、という意味における)「権利」をもつものであり、その意味での「権利は(行政の)決定に先行する」ものであるとする「考え方」と一定の共通性が感じられる。こうした「考え方」のもとでは、保険者は、請求人の主張する「初診日」に係る資料の提供はもとよりその探索にも協力する義務を負うことになろう。
障害年金の実務運用は、厚生労働省(以下「厚労省」ともいう)の障害認定基準に少なからず依拠しているが、その合理性については、さまざまな問題が指摘されている。
「合理性」を欠く理由としては様々なことが推測されるが、「障害認定基準」の規定内容やその実務運用に、「社会保障の財源」問題も、直接間接に関わっていることは否定できないのではなかろうか。
本稿(橋本)は先に、(障害の「程度」や「状態」の判断に間接的に関係していると思われる)社会保障の財源問題は、「障害年金の手続」過程においては、法令や行政主体の判定基礎資料(例えば障害認定基準)に反映され、さらには法令や通達の解釈を通じて当該市民(請求人)の権利に影響を及ぼすことになろう、と述べたところである。以下、こうした本稿(橋本)の関心を意識したところで「障害認定基準」について簡単に言及しておきたい。
ⅰ「障害認定基準」の「法的性格」
原則をいえば、障害認定基準は、法律でも政令でもなく、行政内部の通達にすぎず、法規範性はなく、裁判所の判断もこれに拘束されない(注9)。
ⅱ しかし障害年金の実務運用は、厚労省の「障害認定基準」に依拠しているのが現状である。
ⅰ 「障害年金の手続」からみた「障害認定基準」の整備への関心
障害認定基準の「不合理性」の是正が、まず「決定に係る行政主体の理由説明」の明確化に繋がることが期待される。また障害認定基準の整備は、本稿(橋本)が「有限的変動因子」を切り口として提示してきた「社会保障法の『権利』のもつ柔軟性」に対峙する上での具体的な「手がかり」(一応の内部的基準の明確化)にもなるだろう。
ⅱ 近時の制度改革と日弁連「意見書」―「柔軟な運用確保の必要性」の重視
障害認定基準については、近時の「精神ガイドラインの施行」(2016年9月)により、一定の制度改革が進んでいる。
しかし日本弁護士連合会は、その改善の方向(全国統一の東急判定のガイドラインの作成)が、「憲法25条、国民年金法および厚生年金保険法の趣旨に基づき、本来認定されるべき人が地域によっては認定されていない事態を改善するという障害者の年金受給権の確立・充実につながるものでなければならず、地域間格差是正の名の下に障害年金の支給抑制に繋がることがあってはならない」ことを強調するとともに、特に「柔軟な運用確保の必要性」を重視し次のように述べていることが注目される(日弁連「意見書」ともいう。下線橋本 以下において同じ)(注10)。
「~精神・知的障害における数値化・類型化しにくい障害の特性が捨象され、画一的な運用になる可能性が高く、本来障害年金を受給すべき障害者が切り捨てられるおそれがある。」「~点数化の結果が等級認定に直結されるべきではなく、『日常生活能力の程度』及び『日常生活能力の判定』には反映されにくい『生きづらさ』など、個別の障害特性や事情を総合考慮した上で等級判定を行うことができるよう、柔軟な運用が可能な目安が設定されるべきである」「また、等級認定にあたっては、障害者本人、家族、支援者等から日常生活の状態に関する情報が積極的に収集され、これを十分に勘案しうるものとされるべきである」
判決は、要旨以下のような脈略において、「本件認定基準の合理性」を判断しているものと考える。私見(橋本)を交えながら、要点を指摘しておきたい(注11)。
ⅰ 国年法施行令別表は、障害等級別表について定めているところ、2級15号のようにその性質上具体的内容を明確にするのが困難なものもある。また、具体的な疾病の種類・性質や症状の具体的内容・程度、これらを判定するための具体的な検査項目、基準、方法などについて定めがないものもある。
ⅱ(上ⅰのような実情があるなかで)障害年金給付の客観性及び公平性を確保するため、統一的基準を設ける必要があり、本件認定基準はそのような見地から、複数の専門家の医学的知見を踏まえて、基準の適合性・合理性を判断した上で、作成されたものである。
ⅲ つまり本件認定基準は、障害年金給付の客観性及び公平性を確保する「必要性」から、「複数の専門家の医学的知見を踏まえて」、「適合性・合理性をもつ」との判断のもとに作成されたものであるから、「障害における数値化・類型化しにくい障害の特性をもつ事例」についても、本件認定基準に具体的な不合理な点があるなど特段の事情がない限り、「本件認定基準」に沿って障害等級該当性を判断すべきである、と判断している。「具体的な不合理の有無」を判断する上で、「上ⅰⅱ」の含意は大きいものと考えられる。
以上を前提としたうえで判決は、1型糖尿病については、
ⅰ 2級および1級該当性について具体的指標は設けられていない。
ⅱ (将来は変化する可能性を示唆しつつも)、現状では1級 2級該当性に関する具体的指標を示すことが困難である。
ⅲ 本件認定基準が、上位等級に該当する者の存在を当然の前提としていることは明らかである。
ⅳ 以上のことを前提とすると、上位等級該当性について一義性明確性を欠く部分があるとしても、(本件認定基準が)諸般の事情を考慮しての総合的判断に委ねるべきという定め方をすることにも一定の合理性がある(1型糖尿病については、本件認定基準に具体的な不合理な点はない)としている。その上で判決は、(1型糖尿病については一定の合理性をもつ)本件認定基準に従い「諸般の事情を考慮しての総合的判断」を行い、原告勝訴の判決を下している。
判決は、本件認定基準の合理性を可能な限り容認しようとしているとみることもできそうだが、他面判決が、本件認定基準に具体的な不合理な点があるなど特段の事情がある場合には、本件認定基準に沿わない判断もありうることを示唆していること、あるいは本件認定基準が一義性明確性を欠く場合であっても、一定の条件が充たされる場合には「諸般の事情を考慮しての総合的判断」に委ねられる場合もあるとしていることからは、(少なくとも結果的には)「数値化・類型化しにくい障害の特性」を意識し、「個別の障害特性や事情を総合考慮した、柔軟な運用」に一定の道を開いているようにもみえる。その意味で日弁連「意見書」が指摘する「柔軟な運用確保」に繋がる糸口を読み取ることが出来るようにも思われるがいかがなものであろうか。
イギリスでは、(わが国の生活保護と類似性をもつ)補足給付の「準則集」は法規性をもたない。いいかえれば補足給付は、「受給資格者の請求の上に立って、個々の必要即応の原則により処理するのが理念で、『準則』はその個別事案処理の一応の内部的基準にすぎない」と考えられている(注12)。つまり補足給付の基準給付は法的原則とはなっていないということである。
本稿(橋本)は先に、「『人間として生きるということ』は本来多様な要素を含んでおり、(人間の生存を保障する権利は)『これだ』という形で厳格に決めつけることが難しい」と述べた。そしてⅢ章では、その「多様な要素」を、仮に「有限的変動因子」と表現し、国民の生存の「権利」性と「有限的変動因子」の関りを、具体的に指摘することによって、社会保障法の「権利」のもつ「柔軟性」への理解を深めようとしてきた。
ところでこれもすでに指摘してきたことだが、(障害年金を含む)社会保障に関する給付請求手続は、(社会保障法の「権利」の柔軟性故に)「給付請求手続自体が『権利を実質化していく』重要な構成要素」であり、(「『権利』を、プロセスを通して具体化する」という指摘が示すように)「請求者のニーズの一種の確認手続」の意味をもつ(Ⅱ章参照)。
くりかえしになるがイギリスでは、このプロセス、この手続の過程においては「受給資格者の請求の上に立って、個々の必要即応の原則により処理するのが理念で、『準則』はその個別事案処理の一応の内部的基準にすぎない」と考えられている。
わが国における障害認定基準の整備は急務の課題ではあるが、社会保障法の「権利」の柔軟性を重視したところで「障害年金の手続」を考える本稿(橋本)の立場からすると、イギリスの顰にならい「障害認定基準は、個別事案処理の一応の内部的基準にすぎない」とする見方になお捨てがたいものを感じざるをえない。
もとよりそのためには、「障害年金の手続」過程が、実質的に(国民の生存の「権利」性と行政の「決定」の間に)「一種の新しい調和」を求めていく場(請求者が自らの権利を具体化していく過程)となり(Ⅱ章参照)、結果「受給資格者の請求の上に立って、個々の必要即応の原則により処理する」ことが確保される必要がある。フランスでは、社会保障が「我々の作品」という言葉で表現されているのを目にしたことがあるが、まさに「障害年金の手続」過程が、「我々の作品」となることが求められているということであろう。
Ⅳ章では、その手掛かりを求めて、我が国の「障害年金の手続」過程への一定の「制度的変更」(当面は制度慣行の確立)を提案したい。がその前に以下では、これまで述べてきた「障害年金における手続」のあり様を要約し、Ⅲ章の結びとするとともに、Ⅳ章への伏線を敷くこととしたい。
本稿(橋本)では、「障害年金における手続過程」(含む事後手続)を以下の4点から把握する。
⓵ 障害年金における手続過程は、請求者の「権利」を、プロセスを通じて具体化する「場」(過程)である。
⓶ (⓵のことは、イギリス法において)制度的手続<institute proceeding>と称されるものに通底している。
⓷ (⓵でいう「『権利』をプロセスとして具体化する」という指摘は)、障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを意味している。日本の現状においては、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」にウエイトを置いたところで、「障害年金の手続」を考えることが必至と考える本稿(橋本)の立場からは、このことはことの他重要となる。
⓸ 先に指摘した「障害年金の手続」を通じて、「国民の生存の『権利』性と行政の『決定』の間に何らかの実質的な一種の新しい調和を見出す」という視点は、障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを踏まえた上で使用する。
「『権利』を、プロセスを通して具体化する」という発想は、決して唐突なものではない。
本稿(橋本)は、イギリス法にいわれる「制度的手続<institute proceeding>」から、その着想を得ているが、イギリス法だけでなく、国際人権法に規定された権利が、「法規範としての記述としては完結的なものではなく、権利主体が参加し、構成していくもの(constructive)であり、その意味では、権利主体に開かれた考え方を基底に置いている」(ジャーンル1号)と指摘されていることにも共通するものが感じられる。
また「生命の保障をめぐる公共性」の議論では、「公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈し、どう定義するかは、行政に委ねられるべき仕事ではない。生命のニーズが公共的な対応にふさわしいかどうかを検討し、それを定義していくことは、まさに公共的空間における言論のテーマである。(略)公共性は『ニーズ解釈の政治』が行われるべき次元を含んでいる」(注13)と述べられていることにも相応するものが感じられる。
1型糖尿病障害年金大阪第二次訴訟で原告は、本件各処分は前件判決の反復禁止効(行訴法33条1項)に抵触する旨主張したが、判決(令和3年5月17日 以下⑵において「判決」という)は、「厚生労働大臣が、再度、行手法14条1項本文又は8条1項本文の定める理由提示の要件を満たすような理由を示して前件各処分と同一の内容の処分をすることは、前件判決の拘束力に反しないものというべきである」と述べて原告の主張を採用していない。行政手続法違反で処分が取り消されても、手続に従って再度処分ができるということである。少し考えてみたい。
ⅰ 先に述べたように、イギリスにおける(事後手続である)「審判所」あるいは(事前手続において取り入れられている)「資格に依拠する権利体系」においては、請求人の「権利」(right)は、当初から明確なものとして捉えられているわけではなく、一定のプロセス(手続)を通じて、結果として初めて(否認される場合も含め)確定的なものとなる。
ⅱ 上のことは、(障害年金を含む)社会保障に関する給付請求手続においては、(社会保障法の「権利」の柔軟性故に)、「給付請求手続自体が『権利を実質化していく』重要な構成要素」となっていること、そしてそのことが、「社会保障法の特質のひとつであること」を示唆している。このように考えると、少なくとも社会保障法においては、手続法と実定法を明確に峻別するのは難しいようにもみえる。
ⅲ 本稿において、「障害年金における手続」は、(同じ「手続」であっても例えば)公正の確保と透明性の向上を通じて、国民の権利利益の保護に資することを目的とする行政手続法(平成五 11・12 法88)とは「違った意味での(保障しようとすることの層を異にする)手続」であり、言い方を換えれば「人間が人間として生きる権利」という根源的・包括的権利により明確に支えられた手続であり、「人間が人間として生きる権利」の生成過程にかかる手続であることが認識されるべきである、と考えるのも、上記ⅰⅱを踏まえてのことである。
みてきたような「社会保障法の特質」を考えると、少なくとも障害年金を含む社会保障法における「手続的権利と実体的権利」の関係についての「判決」の判断には検討の余地がありそうである。(障害年金を含む)社会保障の「給付請求手続自体が『権利を実質化していく』重要な構成要素」である事実は(上➁参照)、これまでの「手続的権利と実体的権利」の関係についての捉え方を再考する上で、幾何かの手掛かりを提示しているようにも思われるからである。しかしいずれにせよこれは、筆者の力量をこえる問題ではある。「障害年金における手続過程」の理解を深める一助としての指摘に留めたい。
(注1)池原毅和「障害法をめぐるいくつかの基礎的論点」p99,p100参照 日本障害法学会編 障害法 創刊号(2017年11月)
(注2)1型糖尿病障害年金不支給決定取消請求事件東京地裁判決関連資料
⓵ 1型糖尿病障害年金不支給決定取消請求事件東京地裁判決(令和4年7月26日 p52 賃金と社会保障 №1820 2023年2月下旬号搭載
⓶ 小嶋愛斗「1型糖尿病障害年金不支給決定取消請求事件東京地裁判決(令和4年7月26日本号37頁)を受けて」 p11参照 賃金と社会保障 №1820
(注3)下山瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」p194の引用によった。『人権と行政救済法』三省堂 1979年所収
(注4)同 p205参照
(注5)伊奈川秀和「フランスに学ぶ社会保障改革」中央法規 2000年
(注6)渡辺洋三「社会保障の権利」p251 『基本的人権 総論1』 東京大学社会科学研究所 1968
(注7)障害年金法研究会での議論を土台に筆者(橋本)の理解と関心に従って整理したもの
(注8)国民年金法 30 条1項1号、同条の2第1項、厚生 年金法 47 条1項、同条の2第1項
法令上、初診日は、「障害の原因となった傷病にかかる初診日において、国民年 金又は厚生年金保険の被保険者等であったこと」という加入要件と、初診日の前日 において納付要件を満たしていることを確認する日にすぎず、初診日を特定するこ とが受給権発生の要件ではない。しかし司法や行政は、法令を初診日は、受給3要件(加入要件、受給要件、初診日要件)のいずれにもかかわるものと解釈し、初診日を特定するこ とが受給権発生の要件であるとみている。
(注9)日弁連高齢者・障害者権利支援センター編「法律家のための障害年金実務ハンドブック」p9,p86参照
(注10)「精神・知的障害に係る障害年金の認定の地域間格差是正に関する意見書」2015年7月23日厚生労働省宛て提出。前掲「法律家のための障害年金実務ハンドブック」p155による。
(注11)判決文と(注2)掲載の小嶋論文を参照した。
(注12)イギリスの場合、「準則」の意味するところは補足給付以外の分野にも通じるものと思われる。現状のイギリス補足給付の実態については不知。
(注13)齋藤純一「公共性」p65参照 岩波書店 2010年
ポイント―本章では、これまでの検討を踏まえ、いくつかの「改善点」を具体的に提示しているが、提案の中心は以下のことにある。
イギリスでいわれるMandatory reconsideration(「原処分庁に義務付けられた再検討」又は「原処分庁による再検討の義務付け」の意と解する)を参考にしつつ、本章では(「障害年金」の請求後、相応の期間内に原処分庁の応答がない場合、もしくは原処分庁が棄却あるいは一部認容の決定を行った場合において請求人が希望する場合には)、原処分の再検討が制度上(当面は行政慣行上)原処分庁に義務づけられることを提案する。さらに出来る事ならその再検討の場が、(当該請求人の生存のための要求と保険者の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする「公開審理の場」として設定されることを期待する。「公開審理の場」の設定は、障害年金における手続過程が、請求者の「権利」を、プロセスを通じて具体化していく「場」(過程)としての有効性をさらに深めることになると考えるからである。
社会保障は、「我々の作品」でなければならない。「障害年金の手続」過程は、「我々の作品」が創り上げられる過程でなければならない。
これまでのところで本稿(橋本)は、社会保障に係る手続過程を、「『権利』を、プロセスを通して具体化する(「権利」を創り上げる)『場』」として捉えていくという立場を明確にしてきた。その視点は、本章の検討の中にも、当然反映されることになる。「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」とは、(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする共通の「場」を(さしあたりは行政主体と当該請求人の間に)設定することであり、この視点は障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを前提としている(誤解を招かないためにも出来るだけⅡ章 Ⅲ章も参照されたい)。
本稿(橋本)では、「障害年金における手続過程」の概略を以下のように把握したい。
1) 請求は、障害基礎年金の「本案請求」を想定
2) 上記図(決定❶)に関連して
① 決定❶に先立つ「本人面接」(実態調査)の実施
行政機関は本人面接を行う(注1)
② 決定❶
行政機関は相応の期間内に決定❶を行う
3) 相応の期間内(注2)に、「請求が認められない場合」(注3)においては、請求人が希望する場合、(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする共通の「場」(「『権利』を、プロセスを通じて具体化する『場』」)を設定することが、原処分庁に制度上義務付けられる。
4) 上記3)は、イギリスでいわれるMandatory reconsideration(本稿(橋本)では、「義務付けられた再検討」又は「再検討の義務付け」の意と解する)を参考にしているが、同時にイギリスのように、「行政裁量」が公正かつ司法的な方法で行使されることへの期待と充足が形成されていないわが国の実情をも視野に入れたところで提示するものである。なお5)の記述もあわせ参照されたい(Mandatory reconsiderationについては、Ⅱ章も参照)。
5) 上記図で4「義務付けられた再検討」として提示される過程は、イギリスでいわれるMandatory reconsiderationでは、請求人が「原処分に対する不服を申し立てている場合」に具体化されることになっている。
しかし本稿(橋本)では、(請求人が「不服申立」を求めているかどうかに関わらず)請求人が希望する場合には、「原処分の再検討が原処分庁に義務づけられる」と構成したい。つまり上記図にいう決定❶(「容認」以外の「棄却」等の場合)は、4「義務付けられた再検討」という「場」を経ることによって、確定的なものとなるのであって、変わりうる可能性をもっていることになる。言い換えれば、決定❶(「容認」以外の「棄却」等の場合)は、一種の「留保つき決定」ということになろうか。
Ⅱ章を中心に述べてきた障害年金(社会保障給付)の権利は、「資格決定=給付決定(資格entitlement)に依拠する権利(right)」であるが、「全機構は権利(right)に基礎づけられている」という捉え方がここにも反映されている。
6) <4「義務付けられた再検討」として提示される過程>における「公開審理の場」の設定
「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」のあり様については、Ⅱ章、Ⅲ章を中心に述べてきた。筆者(橋本)としては、これまで述べてきたことを、実際の手続過程に反映させていきたい。その糸口を、本章を通じて見出そうとするものである。
なかでも本章において中心的に提言したいことは、イギリスでいわれるMandatory reconsideration(「原処分庁に義務付けられた再検討」又は「原処分庁による再検討の義務付け」の意と解する)を参考にしつつ、わが国においても(「障害年金」の請求後、相応の期間内に保険者の応答がない場合、もしくは保険者が棄却あるいは一部認容の決定を行った場合において請求人が希望する場合には)、原処分の再検討が制度上(当面は行政慣行上)原処分庁に義務づけられるようにしてはどうかということである。
さらに出来る事ならその再検討の場が、(当該請求人の生存のための要求と保険者の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする「公開審理の場」として設定されることを期待する。「公開審理の場」の設定は、障害年金における手続過程が、請求者の「権利」を、プロセスを通じて具体化していく「場」(過程)としての有効性をさらに深めることになると考えるからである。
7) 請求人の参加
くりかえしになるが、「『権利』を、プロセスを通して具体化する『場』」とは、障害年金における手続過程が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であることを前提として、(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする共通の「場」であることを意味している(Ⅱ章 Ⅲ章参照)。「請求者のニーズの一種の確認手続」という言葉が示唆するように、本稿(橋本)にいう<障害年金の全手続過程>における当該請求人の「参加」は、所与の前提として位置づけられている。
上記図にいう決定❶に先立って実施される「本人面接」(実地調査)も、上のような理解を背景に実施されるものである。
また上記図<4「義務付けられた再検討」として提示される過程>における請求人の参加も、本稿(橋本)にいう<障害年金の全手続過程>が、「請求者のニーズの一種の確認手続」であり、<(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出す>過程であることから導き出される。そして上記図<4「義務付けられた再検討」として提示される過程>に、「公開審理の場」が組み入れられ、そこに請求人並びに関係者が関わっていく(参加していく)ことを切に希望するものである。
8) 「義務付けられた再検討」を経て)再決定❷がなされる。
9) 請求人が、再決定❷に不服を申し立てた場合は事後手続に移行する。
上に提示した「障害年金における手続過程のイメージ図」の理解を深め、わが国の障害年金にかかる手続過程の改善に繋げていくために、以下ではさしあたりいくつかのことを補足的に述べておきたい。
まずは、少し説明を要する原処分庁による「義務付けられた再検討」について、イギリスの状況にも言及しながら、話を進めることにしたい。
イギリスでは、2013年10月、労働年金省の処分に対する不服が申し立てられた場合には、独立した審判所(independent tribunals)による審査に先立ち、まず原処分庁である労働年金省に当該処分の再検討が義務付けられることになった(再検討前置主義)。
イギリスにおいて、雇用支援手当を含む労働年金省管轄の全ての給付の原処分庁に対し、「(原処分の)再検討の義務付け(Mandatory reconsideration)」が要請されることになった背景には、それまでかなりの不服申立が審判所(independent tribunals)にだされ、相当数の救済がなされている事実が関係しているように窺える。つまり「この事実」は、より早い段階での見直しで救済される案件が少なくないことを示唆しているからである(Ⅱ章参照)。
(雇用支援手当<Employment and Support Allowance, ESA>についていえば)、2011年から2013年の間に「労働に適している」と認定された人の約35%が独立した審判所(independent tribunals)に上訴して、その上訴の約33%が救済されている、また2013年―2014年には、ESAに係る処分に対して232,639件の上訴が提出されている。これに対して(当該処分の再検討が義務付けられた)2013年10月以降、上訴の総数は激減している、ということである(上⑴は、ジャーナル3号に掲載されている河野論文に依拠しつつ橋本の責任で記述したものである)。
ところでイギリスでは従来から審判所に上訴がなされた場合、通常原処分庁による「最初の決定(initial decision-making)」の後で、原処分庁段階での「予備的審査(preliminary review) 」がなされ、そこで解決されなかった問題に係る「判断」が審判所における審理対象となるのであって、全ての原 処分庁の「判断」が審判所に係属するのではないといわれてきた。このことからすると、「再検討の義務付け」の導入は、「予備的審査(preliminary review) 」の延長線上にある(予備的審査を充実させた)話のようにも窺えるが、詳細な検討は今後の課題としたい。
イギリスでは、社会保障に係る多くの事前手続において、(社会保障の権利の特殊性に配慮したところの)「資格に依拠する権利体系」という「考え方」が取られていることはⅡ章で触れた。原処分に対する「再検討の義務付け」(Mandatory reconsideration)を行政庁に求める手続の導入も、(社会保障の権利の特殊性に配慮したところの)「資格に依拠する権利体系」と無関係とはいえない、ようにみえる。イギリスでは、2019年以降、義務付けられた再検討の段階で追加の口頭および書面による証拠を収集するための新しい運用アプローチが採用されたと指摘されているが(河野論文による)、この「新しい運用アプローチ」も、(社会保障の権利の特殊性に配慮したところの)「資格に依拠する権利体系」との関りで把握すべき事項のように思われる。
わが国では、年金支給裁定に不服がある場合、その裁定について審査請求をすることができる。審査請求が受理されると、社会保険審査官による審査と原処分をした保険者による処分内容の見直しが行われる。その結果、保険者が自主的に処分内容を変更することもありうる(注4)。またすでに1952年の段階で、不支給決定者の全部(全件数の概ね5~6割)に対して、再診断と実地調査が実施されていたという(注5)。
このようにみてくるとわが国においても、障害年金における事前手続過程に、「(原処分庁に)義務付けられた再検討の過程」に類する仕組みを導入する下地は、皆無ではないようにみえる。もしそうであるなら、わが国においても、以下①②の具体化をもとめていくことは、不可能とはいえないだろう。
⓵ 決定❶が、棄却等であった場合には、「障害年金の手続」の中に、(さしあたりは行政慣行上、ひいては法制度上)わが国固有の「義務付けられた再検討の過程」を導入する。
⓶ 上記⓵にいう過程は、「『権利』を、プロセスを通じて具体化する(「権利」を創り上げる)『場』」の一環」に位置づけられるものであることを確認していく。
繰り返しになるが、「『権利』を、プロセスを通じて具体化する(「権利」を創り上げる)『場』」の設定とは、(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料)を突き合わせて、そこに合理的な結論を見出そうとする(さしあたりは、行政主体と当該請求人の間の)共通の「場」を設定することである。
このことからすると、行政主体(原処分庁)は、(上のイメージ図の)決定❶を行うにあたっても、障害認定基準を含む自身の「判定基礎資料」のどこに依拠し、どのような論拠に基づき当該処分(決定❶)を下すに至ったか(どのような要素を考慮してその決定に至ったか)について説明責任があり、そのことが「理由付記」において具体的に提示されていなければならないことになる。
重要なのは、その説明が当該請求人の側に具体性をもって理解できるものかどうかということである。筆者(橋本)の(社会保険審査会委員としての)経験上から見る限り、行政主体(ここでは原処分庁)の説明の論理には飛躍があり、「到底納得できない」場合も散見された。
いずれにせよ、(説明責任や理由付記に係る)こうした「作業」を経ることによって手続を、(当該請求人の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料を突き合わせ、合理的な結論を見出していく)場として捉える意識が、まずは決定❶の段階で、行政主体(原処分庁)の側に形成されてくることを期待したい。
事前手続過程に、「(原処分庁に)義務付けられた再検討手続」を導入することは、決定❶段階での行政主体(ここでは原処分庁)の判断をより慎重にさせていくことにもなろう。
(「棄却」等にかかる)決定❶に対する「不服」の内実は、「理由付記」に体現される行政主体(原処分庁)の「説明責任」への不満、あるいは「自身の主張と行政主体の『考え方』の齟齬」と関連している場合が多いだろう。このような事実からしても「義務付けられた再検討」の段階では、当該請求人ならびに行政主体(原処分庁)双方からの「口頭あるいは書面による追加の証拠資料の提出」が容認されることによって、より「合理的な結論」への道筋を充実させていくことが期待される。
Ⅱ章で触れたように、イギリスでは「公共信託論」が、基本的人権体系に対する(少なくとも一定の)論理的前提をなしている。そのようなイギリスとは異なる日本の現状を思えば、「障害年金の手続」を考え、「国民の生存の『権利』性と行政の『決定』の間に何らかの実質的な新しい調和を見出す」ためには、「市民」と行政の「非対称性」を重視し、藤原が指摘するように「市民」を年金受給に係る手続の出発点に位置づけ、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」によりウエイトを置いたところで問題を把握することがことの外重要となってくる。
その上でなお、「障害年金における手続過程」全体を絶えずしっかりとイメージして把握しながら、個々の課題にできるだけ明確に関わっていくことが、全手続を「市民」の権利(right)に基礎づけられたものとして把握する上で不可欠なことになってくる。そのための手立てとして以下のようなことが重要となる。
ⅰ 「実調」でのヒアリングや「義務付けられた再検討」の段階での「対面でのやりとり」については、当該請求人が希望する場合等には、オンラインの利用も視野にいれる。
ⅱ 「対面でのやりとり」等の実施においては、非対称性を考慮に入れたところで、当該請求人の側にたった医師や同じ障害をもつ人の参加も保障し、当該請求人の要求(思い)を具体的に補充する仕組の導入も検討されるべきである。
ⅲ 上記においては「行政主体」(原処分庁)という言葉を使ってきたが、Ⅲ章で触れたように、「保険者の役割及び責任と国の権限及び責任」とは、本来異なるものである。今後検討を深めていくなかでは、その異なる「役割及び責任」を具体化させ、手続過程に反映させていきたいものである。
ⅳ 「参与」の制度は、現在の社会保険審査会において「一定の役割」を果たしている。「義務付けられた再検討」の段階において「参与」の参加を求めることは一考に値しよう。ただその前提として、「参与」の役割については、「参加資格」と絡めたところで一層の検討が必要と考えているが、ここでは指摘するに留めたい(注6)。
本稿(橋本)が提示する「義務付けられた再検討」の導入に関連して気になるのは、決定❶が「棄却」等の場合であっても、請求人が「義務付けられた再検討」への移行を望まない場合である。
たしかに決定❶のなかには、「不支給決定」や「一部認容」であっても行政主体(原処分庁)の決定が、請求人の側からみても納得できる場合も皆無とはいえないだろう。しかし問題なのは、行政主体(原処分庁)の決定に問題があると考えられるにも関わらず、請求人が「義務付けられた再検討」への移行を望まない場合である。
こうした場合に重要なのは、当該請求人に伴走し、具体的な「結論」に至るまでの道筋を支援する「組織」の存在である。場合によっては、そこでは「義務付けられた再検討」を求めていく「価値」があるのかどうかについて、(請求人含め)複数の忌憚のない意見が飛び交うことにもなろう。
いずれにせよわが国における「市民」と行政の間の「非対称性」を思えば、「複数の異なる意見が飛び交う」場面をも包含しながら、請求人が「義務付けられた再検討」への移行を納得した場合には、引き続き決定❷の段階までを支援する「組織」の存在が不可欠と考える。
アメリカでは、法的支援団体の活動による権利実現のバックアップが根強く行われてきた。政府だけでなく、市民社会の側の動きも含めて統治を包括的に行うという考え方がひとつの潮流となってきたことが想起される(ジャーナル1号掲載の橋本宏子「刊行によせて」参照)。
本稿(橋本)では、「市民」を年金受給に係る手続の出発点に位置づけ、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」によりウエイトを置いたところで問題を捉えようとしてきた。
上記「1 ⑵ 障害年金における手続過程のイメージ」において、「 2) 上記図(決定❶)に関連して、① 決定❶に先立つ『本人面接』(実地調査)の実施」を提示したのも、「市民の立場」「市民の視点」の重視と関係しており、具体的には以下①のこと、特に下記ⅳのことを意識してのことである。
ⅰ わが国にみられる「市民」と行政の「非対称性」を重視する
ⅱ 「市民」の「自然発生的に生ずる要求」は、権利として把握される(1章参照)
ⅲ 「市民」の「権利」は、行政主体の決定に依拠しない
ⅳ 「市民」の「自然発生的に生ずる要求」は、「客観化できないニーズ(個別性 可変性をもつ有限的変動因子)」を含む
上記図(決定❶)に先立つ『本人面接』(実地調査)の実施」を行う場合においても、「少なくとも年金の審査にあたっては、年金機構から職員を派遣し、申請者に徴収を行い、審査資料とすべきであり、通達(通達「障害年金障害認定に関する実地調査について」昭和37年6月15日 年発第351号 厚生省年金局長通知)も「必要と認めた場合」の職員の実地調査を想定している」と小嶋は指摘している(注7)。参考になろう。小嶋はまた「判断にあたっても、認定医による医学的な見地のみならず、申請者のおかれた日常生活の困難さを判断するためには、社会福祉士や精神保健福祉士等、福祉専門職の判断過程への関与も必須である」とも述べている。障害認定区分や介護認定制度の認定手続も参考にはなろうが、筆者(橋本)の介護認定審査会委員としての活動あるいは家族として認定手続に参加した経験からすると、その認定手続の実態を、年金の審査の「仕組」に適用するためには、検討すべき課題もある。
その課題のひとつは、介護保険法における被保険者の面接が、「(心身の状況、その置かれている環境も含め総体として)当該被保険者は、何ができないのか」を、部分部分でみていくことに重点を置いていることから、当該被保険者の「全体としての人間像」を理解する形にはなりにくい構造になっているということである。Ⅴ章で述べるように、世界的な様々な潮流のなかで、所得保障(金銭給付)としての「障害年金」も、失ったものへの所得保障ではなく、「障害とともに生きる」という視点から、所得保障としての「障害年金」の内実を考える視点が生まれてきているように思われる。「全体としての人間像」の把握に欠ける介護保険法の構造と「障害とともに生きる」という視点との間には齟齬がありそうである。が煩雑になるので、これ以上の記述は省略せざるをえない。
⓵ 請求人が「再決定」❷に納得しない場合は、事後手続としての「不服申立」への移行が想定される
⓶ 現行制度のもとでは、事後手続としての「不服申立」制度は、社会保険審査官から社会保険審査会へと続くことになる。
すでに述べたようにイギリスでは、(当該処分の再検討が義務付けられた)2013年10月以降、上訴の総数は激減している、とされている。
わが国の現状では、審査請求の内容を容認する社会保険審査官の決定は相対的に少ない。それだけ、原処分庁の不支給決定や却下が追認されているわけだが、本稿(橋本)が述べてきたような形で「障害年金における事前手続」過程を充実させることによって、原処分庁の判断がより慎重になるのではないか、とも期待される。
その延長線にあることとして、本稿(橋本)が述べてきた「義務付けられた再検討」の導入を契機に「障害年金における事前手続」過程が、整備・充実していくとすれば将来的には、社会保険審査官制度は必要なくなるのではないかとも考える。
現在の社会保険審査官は、法制度上「厚生労働省の職員のうちから、厚生労働大臣が命ずる」ものとされており、審査 官の独立性も公正性も疑われる状況にある。仮に法制度改革がなされ、行政機関から独立した者が社会保険審査官として選任され、あわせて法律の専門家、医療の専門家、福祉の専門家等の委員で構成する諮問委員会とい う合議体に制度変更されたとしても、その機能の多くは(事前手続と事後手続の違いはあるにせよ)「義務付けられた再検討」の導入によって代替される部分が大きいのではないかとも思われるからである。
以上のことを前提としたとしても(社会保険審査官制度を廃止したとしても)、社会保険審査会の再検討をはじめ、我が国の事後手続としての「不服申立」制度の再考が今後に残された課題であることは間違いない。
社会保険審査会にも独立性の保障が必要であることはいうまでもないが、社会保険審査会が、「社会保険における紛争解決に適合した仕組になっていくためにはどうでなければならないか」を具体的に検討することは容易ではないようにみえる(注8)。
1章でとりあげた藤原論文が示唆するように、「障害年金における手続的権利」について検討すべき課題は多い。本章は、障害基礎年金の「本案請求」を想定したところで、具体的には、「障害年金における手続過程のイメージ図」をもとに、原処分庁に「義務づけられた再検討手続」の導入をはじめ、さしあたりいくつかのことを提示し、それによってわが国の障害年金にかかる手続過程の改善への一素材を提起したものにすぎない。
今後関係者の教示を踏まえて、内容の充実をはかりたいと思う。
次のⅤ章において、障害年金の手続に、根底のところで関係してくるいくつか問題に言及し結びとしたい。
(注1)用語の説明等
⓵行政機関(障害年金の保険者である国、受託組織としての日本年金機構)
⓶審査機関については、日弁連高齢者・障害者権利支援センター編「法律家のための障害年金実務ハンドブック」(以下「ハンドブック」ともいう)p168~170参照
⓷原処分庁 厚生労働大臣 「ハンドブック」p168参照
⓸行政庁と行政主体・行政機関については、兼子 仁「行政法総論」p104 筑摩書房 1983年がわかりやすい。
(注2)行政手続法による「審査を開始する義務」「応答義務」、「標準処理期間」については、「ハンドブック」p169、p171参照
(注3)「請求が認められない場合」(「ハンドブック」p173参照)に加えて「本稿(橋本)」では、「一部認容」も含むものとしたい。以下、本章において「棄却」等という。
(注4)「ハンドブック」p178参照
(注5)安部敬太の早稲田大学大学院法学研究科に提出、授与された「修士論文」による。
(注6)「社会保険審査会」については、橋本宏子「研究ノート 社会保険審査会における『裁判外紛争解決』」神奈川法学41巻2号・3号(2008年)所収ならびに橋本宏子「社会保険審査会における『裁判外紛争解決』」日本社会保障法学会編 社会保障法24号(2009年)所収を参照されたい。
(注7)小嶋愛斗「1型糖尿病障害年金不支給決定取消請求事件 東京地裁判決(令和4年7月26日 本号37頁)を受けて」賃金と社会保障№1820 2023年2月下旬号 10~11頁/判決 賃金と社会保障№1820 p42
(注8)(注6)掲載論文参照
本章ではまず、障害年金の手続に根底のところで関係してくる問題である「(障害年金を含む)社会保障法の法的性格とは何か」、またその延長線上にある「『障害年金の目的』とは何か」に関係するところで少しだけ話を進めてみたい。その上で近年、「人間の自立」「人間の主体性」「自己決定」等々を巡って、新しい広がりをみせている人権概念と伝統的な「障害年金」との間に生じてきている様々な「齟齬」の一端を指摘するとともに、その克服に向けた動きについても触れてみたい。その上で日本国憲法と新しい人権概念との緊張関係にも言及している。本稿(橋本)をこのような形で締めくくる理由は、突き詰めれば「障害年金における手続」が、「人間が人間として生きる権利」という根源的・包括的権利に支えられた手続であることに関係している。
社会保障法という法的表現がはじめて登場したのは、1935年のアメリカのSocial Security Actにおいてである。Social Security Actが、資本主義の一般的危機を背景とするニューディール政策の一環に位置付けられていることからも示唆されるように、社会保障が統一的政策目的概念として登場してきた決定的契機は、資本主義の高度化それにともない発生し拡大する無産大衆の貧困(生活危機)問題であった(注1)。
そして救貧法制の系譜に繋がる公的扶助と社会福祉事業、それに被用労働者を対象とした社会保険は、相対的にではあるが独自の制度として社会保障法形成の土台(社会保障法の守備範囲の一端)を形成してきた。
現在は上のような典型的・伝統的な保障方法に、あらたな保障方法を加えることによって(わが国でいえば「総合支援法」、「介護保険法」等)、今日的な社会保障法の守備範囲が形成されている(注2)。いずれにせよ「社会保険」は、こうした社会保障政策の今日的保障方法の中でも重要な位置を占めている(注3)。
ところで上で触れたような社会保障法形成過程において、特に注目されるのは1870年代以降、西欧各国に普及した「いわゆる社会政策」(以下、「社会政策」という)である。なかでもビスマルクが、社会政策の一環として立ち上げた社会保険制度は有名だが、その政策は、1870年以降の世界的な不況期を背景としており、(それ以前の)産業資本主義段階の政策とは性格を異にするものであった。詳細は省くが、本稿との関りでいえば、(「社会政策」が普及してくる段階になると)資本制生産様式が確立し、(労働力を含む)社会諸関係が商品交換関係の網の目で覆われ、制度的にその経済構造が保障されてくることになったこの段階での制度的人権体系は、資本制生産関係、すなわち、労働力の資本に従属する関係を保障する人権体系としての色彩を強めてくる(注4)。
資本主義の高度化それにともない発生し拡大する無産大衆の貧困(生活危機)問題に対処する社会保険(ひいては社会保障の一環としての社会保険。以下同義)が、要保障事故として捉えてきた生活事故は、貧困化の契機となるもろもろの生活事故ないし貧困状態そのものである(注5)。
社会保険が対象とする要保障事故(「貧困化の契機として捉えた生活事故」)は、失業、障害、老齢、遺族等々に類型化され、そこでは障害や老齢等々として体現される「人間の生きる姿」は、(資本制生産関係、すなわち、労働力の資本に従属する関係を保障する人権体系との結びつきが強い)「稼得能力の喪失」と結びつけられたところで把握される傾向をもってくることに注目したい。
「社会保険」は、保険料の拠出を前提として所定の生活事故(保険事故)に定型化された給付(保険給付)を行う制度として理解されてきた。詳述すれば、「社会保険」においては、保険の技術的要素である、保険料の総額(保険収入)と、保険金の総額(保険支出)とが等しくなるようにはかる「収支相当の原則」だけでなく、加入者の支払う保険料は、それが偶然に受け取ることのあるべき保険金(保険給付)の数学的期待値に等しくする「給付・反対給付均等の原則」についても、完全に無視するわけにはいかないと考えられてきた(注6)。しかし近年では、わが国の国民年金法において、いわゆる「20歳前障害年金」の制度が導入されたことにみるように、少なくとも「給付・反対給付均等の原則」については、「社会保険」は、すでに「変容」の段階に入ったといえるだろう。
ところで社会保障、なかでも「社会保険」においては、保険事故(「要保障事故として捉えてきた生活事故」)という脈略の中で、「事故」という言葉が、おそらく保険の技術的要素と関連したところで用いられてきた(用いられている)。単に用いられているだけでなく、「障害」や「老齢」という「事態」が、「事故」として把握されていることに留意したい。さらにいえば、「稼得能力の喪失」(労働能力の喪失)も、「事故」と関連するところで把握されている。
⓵(資本制生産関係、すなわち、労働力の資本に従属する関係を保障する人権体系との結びつきが強い)「稼得能力の喪失」という表現あるいは「障害」や「老齢」という言葉が、「事故」という視点から把握されることと⓶「人間が(そのままの姿で)人間として生きる」という姿勢の間には、「齟齬」があるように筆者(橋本)には思われる。
また各人がそれぞれ「人間として生きる」ためには、各人がもつ「個別性」を無視することはできないが、生活事故(保険事故)に定型化された給付(保険給付)を行う(ものとして形成されてきた)「社会保険」制度は、「人間が人間として生きる」ことのもつ「柔軟性」にどこまでどのように対応することができるのだろうか、とも考える。
これらのことが、「障害年金」においても現実の課題になってきている、と筆者は理解している。以上のような「問題意識」のもと、話を続けていきたい。
本稿(橋本)は、「市民(障害をもつ人)の立場にたつこと」を出発点とし、「市民」の「自然発生的に生ずる要求そのもの」にウエイトを置いたところでその生存の「権利」性をとらえ、「障害年金の手続」を考えようとしてきた。
年金制度は「定型性」をもつ制度である(上記参照)。つまり年金制度は(障害年金制度についていえば)、「障害」というひとつの「(事故)状態」に視点をあてて構成されたものであり、「身体性をもった人間の生命全体」に直截焦点をあてて問題をとらえているわけではない、ということになる。
障害年金制度のもつ「定型性」を重視するなら、「(障害年金の)手続の出発点にたつ市民(障害をもつ人)の「自然発生的に生ずる『個別性』や『可変性』をもつ要求そのもの」を重視すること(いいかえれば「身体性をもった人間の生命全体」に直截焦点をあてること)は、年金保険制度のもつ「定型性」や「画一性」にはなじまない(矛盾する)部分をもつということになる。
この点については、例えば永野も、自身の考える障害認定の在り方に触れて、「(そのあり方は 橋本)『定型性』を重視する社会保険の仕組みの中に、『個別性』を導入することにならないかという懸念もないわけではない」と率直に述べている(注7)。
障害年金を考える上で、障害年金が本来有する「定型性」と請求者が求める「個別性」のせめぎあいは、どのように「克服」されることになるのだろうか。以下では、(冒頭で触れた)「歴史にみる社会保障法の変容」に一旦視点を戻し、そこを切り口に、話を展開させていきたい。
資本主義の高度化それにともない発生し拡大する無産大衆の貧困(生活危機)問題に対処する社会保障施策の一環として、社会保険が対象とする要保障事故(「貧困化の契機として捉えた生活事故」)は、失業、障害、老齢、遺族等々に類型化され、結果(資本制生産関係、すなわち、労働力の資本に従属する関係を保障する人権体系との結びつきが強い)「稼得能力の喪失」と結びつけられたところで把握されてきたと考えられることは上記のとおりである。
話が飛躍するようだが、国年法(厚年法)施行令別表への批判として「長期にわたる安静を必要とする」状態が1級・2級の障害年金支給のための条件であるなどと法定することには、全く合理性がないと指摘(以下⑵において「指摘」という)されている(注8)。「指摘」は続けて、「(上でいう法定は 橋本)~どんなに重い障害があったとしても、社会に生き生きと参加する姿が当然という現在のノーマライゼーションの理念とも乖離している」とも述べている。
「指摘」に筆者(橋本)は、全く異論はない。しかしだとすれば、社会保険が失業、障害、老齢、遺族等々を、「要保障事故」として類型化し、「障害」や「老齢」を「稼得能力の喪失」と結びつけたところで把握してきた(いる)ことは、「障害をもつ人々」が「社会に生き生きと参加する姿を当然」と考える理念と矛盾しないのだろうか。ノーマライゼーションは理念の話、「社会保険」は「社会保険」の話だと割り切れることなのだろうか。割り切ってよいことなのだろうか。
障害のある人の「稼得能力の喪失・減退」を問題とすることは、突き詰めていえば稼得能力を喪失・減退する前の状態と(端的にいえば健常者と)、障害者を比較することになるのではないだろうか。もっといえば、それは「人権がある一定の健康あるいは身体的状態だけを要件とする」(後述するデゲナーの指摘)ことにつながるのではないだろうか。さらに問題なのは、「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と結びつけて捉えてしまうと、そこからは当該障害者が、現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで「人間として生きようとすること」を、「障害年金の要保障事由」と積極的に結びつけてとらえることができなくなってしまうのではないかということである。「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」とを結びつけて捉えることは、子どもの権利条約にもみられる「個々人のそれぞれに則した権利保障」という昨今の国際人権の発展とも逆行することのように思われる。ちなみに障害者権利条約17条は、「すべての障害者は、他の者との平等を基礎として、その心身がそのままの状態で尊重される権利を有する」(日本政府仮訳2009年版)と規定している。
現行の年金法(国年法・厚年法)の関連諸規定を、障害者権利条約等の趣旨に引き付けて解するなら、例えば障害程度(状態)要件の認定には、「社会生活を送る上での支障」にも考慮する実務上の留意が必要となり、またそこでの「社会生活」には、「(個々人のそれぞれに則した)社会生活」の含意が籠められていると解すべきだろう。そこには、障害年金(「障害年金の要保障事由」)を、(事故あるいは稼得能力の喪失という)「過去」と結び付けるのではなく、今(将来)と結び付けて把握しようとする「機運」が感じられる。以下では、こうした「機運」の様々な広がりをもう少し辿ってみたい。
「障害年金」に係る問題も、稼得能力の喪失に対する所得保障(金銭給付)の次元を超えて、直截「人間」の生命そのものと関連させたところで、いいかえれば「障害とともに生きる」という視点から、「障害年金」の内実を考える必要性がでてきているのではないだろうか。このことは、テレジア・デゲナー等の指摘を重ね合わせる中で、深まりを増してくる。
テレジア・デゲナー(Theresia Degener 国連障害者権利条約特別委員会<2002~2006>に参加。国連障害者権利委員会前委員長)は、国連の特別委員会の委嘱により執筆された著書(共著 Human Rights and Disability 2002年)の中で次のように述べている(第二の指摘は略)。
人権モデルにおいては第一に、「人権がある一定の健康あるいは身体的状態を要件とするものでないこと」は確かである。これに対し社会モデルは、障害が社会的に構築されたものであることを説明するだけにとどまっている。First, the human rights model can vindicate that human rights do not require a certain health or body status, whereas the social model can merely explain that disability is a social construct.
人権モデルは第三に、障害を「生活の質を下げるかもしれない状態ではあるけれども、人間のひとつの姿であり、それゆえに人間の多様性のひとつとして尊重されなければならない」ものとして理解する Thirdly, the human rights model embraces impairment as a condition which might reduce the quality of life but which belongs to humanity and thus must be valued as part of human variation
デゲナーの指摘が注目される理由は、障害のある人個々人が、各々の健康状態や身体的特徴をあわせもったそのままの姿で「人間として生きること」を捉えていることにあると考える。そこには、1章で触れた本源的自然発生的欲求から発生する「人間として生きる」という視点と重なるものが含意されているように思われる。
ブレア政権下のイギリスの福祉政策に影響を与えたといわれる「第三の道」の以下の指摘は、(同政策が、民営化路線を推し進めたことへの批判とは別に)「身体性をもった人間の生命全体」への関心を示唆していることも事実なのではなかろうか。
ⅰ ネガティブからポジティブへ
河野論文(「英・米・豪の障害年金制度における労働能力判定の動向」)によれば、A・ギデンズ、佐和隆光訳『第三の道』(日本経済新聞社、1999年)では、「私たちは、福祉国家のかわりに、ポジティブ・ウェルフェア社会という文脈の中で機能する社会投資国家(Social investment state)を構想しなければならない。」「ポジティブ・ウェルフェアは、ベバリッジが掲げたネガティブな項目の一つひとつを、ポジティブなものに置き換えるのである。不足を自主性に、病気を健康に、無知を(一生涯にわたる)教育に、惨めを幸福に、そして怠惰をイニシアティブに置き換えようではないか。」と述べているという。
ⅱ できないことからできることへ
また(上記『第三の道』では)新たな障害者政策の目標は、新しい障害法、職場環境の変化、労働安全衛生の発展を考慮に入れて、「できないことではなく、できることを調べる」ことにより「ポジティブ」が強調されているという(Ⅱ章にいう「河野報告」による)。
人間を「身体性をもった生命全体」として捉えるということは、個々の障害者の個別性に着目することである。いいかえれば障害者の問題を、「貧困化の契機」のレベルで(「障害」として)捉えるのではなく、「障害を持つ人個々人」の状態(「障害をもつ個人」であること)に着目して捉えるということである。
ここでは多くを述べることはできないが、障害を「身体性をもった人間の生命全体」に着目して捉えるという方向性は、様々なところで実質的な深まりを増してきているように思われる。例えば、障害の対象が「内部疾患」や「精神障害」へと拡大してきていることも、障害を「障害を持つ人個々人の状態に着目して捉える」機運を促していることのひとつのように思われる。またすでにⅢ章で述べたことだが、1型糖尿病障害年金訴訟<東京>において裁判所が、原告について「重症低血糖や高血糖に対する不安を抱えながら、これらが生じないように、常に、食事、行動、仕事などに関して慎重な配慮を要する生活を強いられる~」と述べていることも、(裁判所の主観的意図はさておき少なくとも結果としては)「障害のある人の機能障害に基づく個体としての苦悩」を、「障害年金の手続の出発点にたつ市民(障害をもつ人)の「自然発生的に生ずる『個別性』や『可変性』をもつ要求そのもの」に重ねあわせた判断になっているといえないだろうか。これもすでに指摘したことだが、~イギリスの判定手続から得られる示唆の1つとして、河野論文が「社会的障壁と個々の障害者に対するその影響を、身体的機能障害の定型化と同様に定型化することには困難が予想され、当面、社会的障壁とその影響の基準化ではなく、社会的障壁の障害者への影響を個別に判断することが可能な手続きの導入」について述べていたことも「個別性」や「可変性」の話と関連することのように思われる(下線 橋本)。また「提言」が、「形式審査から実質審査へ」の移行を提起している背景にもこのことは関係していると筆者(橋本)は理解している。
現行の年金法制度(国年法・厚年法)を前提としたところで障害者権利条約、障害者基本法との整合性を考えたとしても、障害程度(状態)要件認定の際には、「社会生活を送る上での支障」にも考慮する実務上の留意が必要である、とする指摘(以下⑴⑵において「指摘」という)がある(注9)。「指摘」は続けて(上でいう「社会生活を送る上での支障」に関連して)、「日常生活」とは、居宅内での生活・社会的生活・職務上の生活から構成され、人とコミュニケートしたり、家事をこなしたり、趣味を楽しんだり、金銭管理をしたりしており、日常生活能力とはさまざまな総合的能力のことである」と述べており、そこでは「日常生活」は、「居宅内での生活だけでなく、社会的生活や職務上の生活」も含むものとして幅広く捉えられている。「指摘」が「社会生活を送る上での支障」という文脈で使用している「社会生活」と<障害認定の評価基準>とされている「日常生活能力」にいう「日常生活」は、同義であり「居宅内での生活だけでなく、社会的生活や職務上の生活も含むもの」として幅広く捉えていきたいものである。
「指摘」がいう「社会生活(日常生活)」には、「(個々人のそれぞれに則した)社会生活(日常生活)」の含意が籠められている、と本稿(橋本)は理解する。そのように理解することによって、障害年金(「障害年金の要保障事由」)を、(事故あるいは稼得能力の喪失という「切り口」を通して、受給請求者の)「過去」と結び付けるのではなく、今(将来)と結び付けて把握しようとする「機運」との繋がりも出てくるように筆者(橋本)には思われるからである。
社会保険が失業、障害、老齢、遺族等々を、「要保障事故」として類型化し、「障害」や「老齢」を「稼得能力の喪失」と結びつけたところで把握してきた(いる)ことは、「障害をもつ人々」が「社会に生き生きと参加する姿を当然」と考える理念と矛盾しないのだろうか。あらためてそんな疑問が湧いてくる。
こうした疑問を払拭するためにも、(個々人のそれぞれに則した)社会生活(日常生活)の内実を具体的に析出していくことによって、障害をもつ個々人が直面する社会生活(日常生活)における固有の制約や困難の原因(その原因は、少なからず社会環境がその人の心身の状態に適合するように造られていない<なっていない>ことが関係している)を明らかにし、「社会に生き生きと参加すること」に繋げていくことが必要になる。
現状の実務の世界における「日常生活」の理解は、極めて一般的、抽象的なレベルに留まっているのではないだろうか。(個々人のそれぞれに則した)日常生活の解明は、ほとんどなされていないのが現状のように窺える。例えば先に触れた1型糖尿病障害年金訴訟<東京>の判決でも、「日常生活」については「血糖値の変動やそのコントロールが困難であることそのものから生ずる日常生活等への支障に着目してその障害等級を判断すべきである」、「~この就労の事実をもって原告の日常生活への制約が少ないと評価すべきでない」といった記述にみられるように、日常生活等の理解は総じて「抽象的、一般的なレベル」に留まり、(原告の実情に則した固有の)日常生活の「あり様」を前提としたところで、「日常生活」への支障の有無が検討されているようにはみえない(注10)。
本稿(橋本)は、「人間が人間として生きる権利」、すなわち「生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利」を原点において問題を捉えようとしてきた(1章参照)。このことは社会生活(日常生活)を考える上でもかわることはない。「障害をもつ人々」が「社会に生き生きと参加する姿」は、「生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる姿」のひとつの現われに他ならないはずである。
社会生活を「人間として生きる」ことに結びつけて考える上で、参考になることのひとつが、ロック(自然法思想家)の「人間の社会生活の基点に労働を置く」という「考え方」である(注11)。ロックについては「労働」の理解を初め関連で具体的に触れたいこともあるがここではその余裕がない(ジャーナル1号も参照)。
また近年では、マルクスの思想もふたたび注目を浴びてきているが、マルクスもまた労働に関心をよせ、次のように述べている。人間は、自然の一部として「外界との物質代謝」(「自然的物質代謝」)を営むだけでなく、意思をもって自然に働きかけ、「『人間と自然の物質代謝』を制御・媒介する」という他の動物とは異なる特殊な形で自然との関係を取り結ぶ。この「人間に特徴的な活動」が労働である(注12)。
マルクスのいう「人間に特徴的な活動」(労働)もまた、「労働と社会生活(日常生活)」を考える上で、少なからず参考になりそうであるが、指摘するに留めざるを得ない。
もっとも社会生活(日常生活)には、「人間と自然の物質代謝」だけでなく、(マルクスのいう労働とは無関係にみえる)「人と人との関係」も大きなウエイトを占めている。
しかしながら「人と人との関係」も実は、人間の意識に関連するところでは、労働すなわち「人間と自然の物質代謝」と少なからぬ関係をもっている。
以下ではジャーナル1号で述べたことを、その理由(「人間と自然の物質代謝」が「人と人との関係」にも影響していること)に引き付けて要約、確認するとともに、そこから次項6への「繋ぎ」を見出していきたい。とりあえずジャーナル1号に視点を向けたい。そこでは、以下の4点が指摘されている(特に以下の⓷⓸参照)。
⓵ 欧米人の自我(意識のあり方)は、はっきりと他に依存しない存在として確立し、他から独立した主体性をもつといわれている。
⓶ このような欧米人の自我(意識のあり方)は、近代市民社会における「市民法的人間像」、すなわち「抽象的な自由・平等の地位を保つ自覚的主体的人間」像(強い安定した自立した個人像)にも反映されていると考えられる。
⓷ ところで他に依存しない存在として確立された欧米人の自我(意識のあり方)は、他を対象化し把握する力を発揮することによって、自然現象を観察し、解明して「自然科学」を発展させてきた。しかし同時に自然を対象化し、自然科学を武器として自然を支配していくことにもなっていく。「自然科学」の驚異的な発展は、「西欧における近代」と「進歩・発展という概念」を繋げていくことにもなった。
「労働」が、「意思をもって自然に働きかけ、『人間と自然の物質代謝』を制御・媒介する」という言葉で説明されてきたことや「人間と自然の物質代謝」や「自然的物質代謝」の変容についての指摘も、このあたりの事情と関係している。
⓸ 最近では、こうした自然科学的認識の重要性を認めつつも、他方においてはそれとは異なる視点からの、つまり我々もまた「存在するものの全体」(自然natureより広がりをもつ「じねん」という言葉があてられる場合もある)の一部であるとの視点にたち「自分がなかに入った物の見方」の重要性も指摘されてきている。客観的な観察者と観察される現象とを明確に区別して考えることが不可能な場合があること、観察者も現象のなかに組み込んで全体的関係性を問題にしなくてはならなくなってきていることは、最近の理論物理学(量子物理学)においても指摘されてきている。(人間と人間の関係という言葉に代表されるような)人間を含む体系に、自然科学的認識をそのままあてはめることには無理があるということだろう。
以上のことは、「市民法的人間像」ひいては「人間の自立」や「人間の主体性」は、欧米人の自我(意識のあり方)のあり方と関係していること、そして欧米人の自我(意識のあり方)は、「人間と自然の物質代謝」のあり様と結びついた自然科学的認識と少なからず関係していることを示すとともに、最近では、自然科学的認識をそのまま人間を含む体系に適用することへの疑問も提示している。以下6では、これらのことを特に後段に焦点をあてながら、具体的にみていくことにしたい。
障害のある人個々人が、各々の健康状態や身体的特徴をあわせもったそのままの姿で「人間として生きること」が提唱されてきている。障害の有無にかかわらず、「人間として生きること」言い換えれば「個」としての人間が、「身体性をもった人間の生命全体」と深い関りをもって捉えられてきている。
近代西欧社会において、「人間が人間として生きる」というときの「人間」は、自律した強い個人を前提としている。資本主義経済の発生を背景とする近代市民社会において、その「市民法的人間像」として想定されたのが、「抽象的な自由・平等の地位を保つ自覚的主体的人間」(強い安定した自立した個人)といわれている。上5の末尾で指摘した「他に依存しない存在として確立された欧米人の自我(意識のあり方)」を想起されたい。
障害者権利条約は、条約の一般原則の初めに、障害者の「固有の尊厳、個人の自律(自ら選択する自由を含む。)及び個人の自立の尊重」(3条(a))をあげており、そこには近代西欧市民社会の成立を契機とする「強い安定した自立した個人」像が継受されているようにみえる。わが国の人権規定も西欧型人権体系を導入したものであり、日本国憲法は根源的な部分においてリベラリズムの立場に立ち、「自律的な人間像」を根底にすえている。
現実の「身体性をもった一人一人の個人」は、「市民法的人間像」が前提としているような「強い安定した個人」として、捉えられるのだろうか、という疑問がさまざまな形で提起されてきている。
ここで提起されていることは例えば、当事者運動との関りの中で生まれてきた「当事者主権」から「当事者研究」へと繋がる流れの中からも読み取ることができる。その過程を少し辿ってみよう。
1960年代から70年代、わが国においても障害者、LGBT,女性、エスニックマイノリティの人びとによって、変わるべきは社会の側であると主張する当事者運動が展開された。それはいわゆる「医学モデル」から「社会モデル」の流れと符合していた、そして当事者運動のなかで重視された標語のひとつが「当事者主権」であった、と指摘されている(注13)。
しかし当事者運動の展開過程において、参加者から要旨以下のような指摘がなされてくる(注14)。
「当事者主権」という考え方がぴったりくるのは、「自分のことがわかっている」という当事者の場合のみである。「自分たちのことを自分たちで決める」といっても、十全な決定をするためには、何を決定したらどのような帰結が自分におとずれるのか、どのような帰結が自分にとって望ましいのか、といった知識が必要になる。それは「自分とは何者か」に関する基礎的な事項である。しかし自分の望む状態や、自分の生活世界について「こうすれば、こうなるだろう」ということがわからない場合がある。
「当事者研究」は、以上のような「指摘」を踏まえて、「決定する、社会を変える」ということの前に、「そもそも私は何者なのか」ということを研究する必要があると感じている当事者たちによってはじめられたものであるといわれている。
以上「当事者研究」が求められてくる経緯について縷々のべてきたのは、障害年金を請求する(あるいは受給する)人たちの中にも、「自分の望む状態や、自分の生活世界について『こうすれば、こうなるだろう』ということがわからない」と感じている方々がおられるのではないかと考えるからである。さらにいえば、障害年金を請求する(あるいは受給する)人たちの、ひいては我々ひとりひとりの人間の「主体性」や「自己決定」という言葉にもっと敏感にならなければならない、自戒を籠めてそう感じているからである。
脳性麻痺という障害をもつ人が「当事者主権」(という考え方)に救われたと述べているのに対し、自閉スペクトラムの人は、逆に排除されたと感じているという「指摘」は重い。そこには「(車椅子を利用している)西欧の白人成人男性」像の話にも通じるものも感じられる。先に「当事者主権」という考え方がぴったりくるのは、「自分のことがわかっている」という当事者の場合のみである、という指摘を引用した。しかし言葉の正確な意味で、「自分のことがわかっている」という当事者(人間)は、果たして存在するのだろうか。そんな疑問も湧いてくる。
1章において「人間が人間として生きる権利」に言及した。そこでは深入りしなかったが、本稿(橋本)は、「人間が人間として生きる」という意味での「生存権」の規範的意味内容には、「個々の生命は、自分だけでは完結できない」、いいかえれば「他者との関り」が当然に内包されているのではないか、という思いを払拭できないでいる。このような視点は筆者(橋本)が指摘するまでもなく、様々なところで、様々な形で展開されてきている。以下ではそのいくつかを、本稿(橋本)との関りを念頭におきながら紹介しておきたい。
フェビエンヌ・ブルジェールは、著書「ケアの倫理」(注15)において「フェミニズムにおけるケア論」を展開しているが、そこでは「個人が一人で存立できるというのはフィクションである」という視点のもと、「活発な生命は弱い生命でもある。維持、発展、修復が必須の世界で、生命は存在する。『配慮する』ことは、この世界に棲む、すべての生命、すべての存在への関心である。このような『ケア』の定義は、『ケア』を人間の生命の中心的な活動であると位置づける」と述べている。そして関連するところでブルジェールは、「フェミニストの倫理」は、「弱い声としての女性たちの声を理解することであり、世界に異なる仕方でかかわることである。より一般的には、最も弱い人びと、聞かれることのない人びと、認められていない人びとの声を聞くことだ」と述べている。
またブルジェールは、「フェミニズムは、西欧の傲慢さ、西欧の力の夢想から離別し、平等主義と反帝国主義の展望において、絆、関係の意味を再考する」と述べて、西欧近代批判と結び付けたところで、「絆や関係」の重要性に言及している。ブルジェールはまた、ジョン・ロールズの理論を「依存の関係、人間の弱さ、不正の状況になんら言及していない」という視点から批判するとともに、ロールズの理論が依拠すると主張する「18世紀のヨーロッパにおける実践哲学の転換」へと話を拡げている。
田中耕一郎は、<重度知的障害者>を視座においたケア規範の探求を試みた論文の中で、「弱く」「もろい」存在であることが普遍的人間属性であるとし、すべての人を包摂したところに「ケアの倫理」を位置づけている(注16)。そして田中は、ジョン・ロールズだけでなく、アマルティア・センについても「センのような平等論者」が想定する「『自律的な自由を達成すること』の規範化(自由でなければ人間ではない)は、如何なる支援によっても、その達成が困難な人々を視野の外に置いていくリスクを孕んでいる」とする批判を引用・提示している(注16)。センについての田中の指摘は、障害者権利条約が「障害者と他の者との平等を基礎とすること」に力点を置いていることや本稿にいう「強い安定した個人」像の再考とも関連して、特に興味深い。
「生存における他者」の存在の重要性は、例えば災害にあった個人と他者の間の関係性あるいはケアを必要とする個人と他者の間の関係性を念頭において語られる場合がある。上で紹介したフェビエンヌ・ブルジェールや田中耕一郎の場合はその観が強い。
これに対し「生存における他者」という言葉は、いわば「個々人の中に他者が存在することによって、はじめて個人が成り立つ」(個人を個人として確立させる他者)というニュアンスで使用される場合がある。
森田真生が「生命の網」という言葉を用いて、「自分のどこを探しても、自分でないものがない場所がないだけでなく、生命の(互いにからみあっている)複雑な関係は地球の隅々に張り巡らされている」と述べていることは、このことをよく表現しているように思われる(注17)。森田の「関係」という言葉からは、華厳経のイメージとも重なるものが感じられる。仏教に対する関心も高かったといわれる心理学者のユングは、自己(無意識)を形成しているのは、他者(精神的存在としての自己)だという見解を提示している。
國分功一郎は、中動態というかつてインド=ヨーロッパ語にひとつの態として日常的にもちいられていた言語について語った著作の中で、中動態について、要旨次のように説明している(注18)。
中動態は、主語を座として「自然の勢い」(力の実現)が実現される様を指示する表現であり、いわゆる自発の表現(例 昔がしのばれる)は、その「勢い」のうち、「自然」の部分が強く感じられる表現である。
上の説明からすると、中動態のもとでは、「主体」(含む「主体」の抱く思い)は、他(おそらく複数の他者を含む広義の「自然」)との関りで形成されるものであって、確固たる主体が、他と切り離された形で予め存在するわけではないことが窺われる。
國分は、(他と切り離された)「人間主体」さらには「意志」や「責任」「自由」「選択」といった概念が創造されてくるのは、(言語としての中動態が喪失した)ギリシャ以後の西洋世界においてであると指摘している。重要なのはみてきたような國分の一連の指摘が、「意志」は自発的に存在するものではなく、他者との関りのなかで形成されるものであることを示唆していることである。
本稿(橋本)は、「障害年金における手続」を、「人間が人間として生きる権利」という根源的・包括的権利に支えられた手続であり、「人間が人間として生きる権利」の生成過程にかかる手続として捉えてきた。手続を、「権利」(市民の自然発生的に生ずる要求そのもの)を、プロセスを通じて具体化する「場」あるいは「市民が自らの権利を具体化していく過程」とも表現してきた。
こうした把握にいたる背景のひとつとして、國分の著作からの影響(突き詰めていえば、「確固たる主体が、他と切り離された形で予め存在するわけではない」という指摘)があることは否めない。
先にも触れたように、欧米人の自我(意識のあり方)は、はっきりと他に依存しない存在として確立し、他から独立した主体性をもつといわれている。
こうした意識構造をもつ欧米人にとって「対話」は、他者との間を繋ぐものとして重要な位置をしめている。対話を続け、討論することで、他者との間で解決点や妥協点を見出す努力を期待するとともに、「自己決定」の内実を固めていくことにもなっていく。その「対話」の厳しさは、対決することに等しい、と河合は指摘している(注19)。
上で述べたような欧米人の自我(意識のあり方)に対し、日本人の自我(意識のあり方)は、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではないといわれてきた。しかし日本人の自我の特徴(他にひらかれている、すべてのものを包摂する、バランスをとる、場のなかにところを得る、察する、耐える等々)についても、近年では「他に開かれており、他と切り離して存在することが難しい」という形でその特徴がとらえられるようになってきている。
河合は、「じねん」という概念との関係で、受動的であった本人が転換点を迎えることによって、その「主体が(じねんの中から)立ち上がる」という表現で、日本人のいわば「意志」形成のあり様のいわば「元型」を示唆している。ここでいわれる「じねん」は、自然(nature)より広義であり「自我を中心におかない、存在の自生(運動や思考などが人為によらないで自然に生じ自然に制止される様)的な流れ」を指すものとして使用されている。河合の提示する「日本人の意志形成のあり様」は、「『じねん』が導く先にある生のあり方」を示唆しているようにみえる(注20)。そこには、上記の國分の指摘とも共通するものが感じられる。
内心の自由は、最高度に保障される憲法上の自由だとされ、国家や他者は自己決定の内実には直接かかわっていくべきではないと考えられている。
こうしたなかで上記⑸で触れた國分功一郎は、「主権」について、要旨次のような発言をしている。発言は、上で触れた「中動態」についての理解を踏まえてのものと思われるが、「主権」を通して、「自己決定」や「主体性」を考える上でも重要な指摘なので、その要旨を紹介しておきたい(注21)。
「主権」は本来政治で用いられる概念だが、このことから派生して「自分で自分のことを決めるとはどういうことなのか」「自分で自分を支配できるのか」そういう意味での「主権」は可能なのか、が問われてきている、と國分は述べている。その場合重要なのは、「当事者だから自分で決める権利がある」と宣言してしまうと、他人は何もいえなくなる可能性がでてくる。当事者の権利主張は当然認められるべきだが、そこには陥りやすい隘路があることもみのがせない。当事者に対して何ごとかを語る人を「内政干渉」と捉える圧力の存在も無視できない、とも指摘している。そして國分は最後に、そもそもこうした指摘をすることすら難しいという現状がある、と述べている。
先に「③『当事者主権』の限界と当事者研究」の項で、「『自分のことがわかっている』という当事者(人間)は、果たして存在するのだろうか。そんな疑問も湧いてくる」と述べた。「自己決定」を考える際には、このことを上の國分の指摘に重ねあわせながら考えを深めていきたいものである。
すでに述べたように、障害者権利条約は、条約の一般原則の初めに、障害者の「固有の尊厳、個人の自律(自ら選択する自由を含む。)及び個人の自立の尊重」(3条(a))をあげており、その意味では障害者権利条約には、近代西欧市民社会の成立を契機とする「強い安定した自立した個人」像が継受されているようにみえる。
わが国の人権規定も西欧型人権体系を導入したものであり、日本国憲法は根源的な部分においてリベラリズムの立場に立ち、「自律的な人間像」を根底にすえている。
松尾 陽は、「正義の倫理は、自律的な人間像を根底に据えており、憲法の根源的な部分にあるリベラリズムの立場である。」(下線 橋本以下同じ)。これに対し「自律に押し潰されそうな人びとをケアの倫理によってその重みから解放することを推し進めることはリベラリズムと緊張関係に立つだろう」「ケアの倫理では、ケアする/ケアされる関係こそが人間社会の基本となる」と述べている(注22)。
日本国憲法が自由を重視し、その中核に「自分のことは自分で決める」という自己決定を置いていることは、「人は自らの力で人(自分という個)になる」というスタンスを前提にしている。そこでは、「個の生存にとって必要とされる他者の存在」は想定されていない。「ケアの倫理」(上記 ➁ ケアの倫理参照)は、リベラリズムと緊張関係に立つと表現される所以である。日本国憲法が自由を重視し、その中核に「自分のことは自分で決める」という自己決定を置いていることと「個の生存(自律)にとっての他者の存在」に関心を寄せる本稿(橋本)の立場はどのように折り合いをつけることができるのだろうか。
松尾も指摘する憲法の根源的な部分にあるリベラリズムとは何だろうか。定義があいまいで恣意的に使われることもある。様々な理解があるが、宇野重規は、「リベラリズムの根底にある自由は本来『自律』の意味に近い」と述べている。「誰もが自律できるような社会をともにつくる。そのことへの責務を含め自由だと考える」とも述べている(注23)。
そうなると問題は、「自律」とは何か、いいかえればリベラリズムの根底にある自由とは何か、自由をどのように捉えるか ということに関係してくることになろう。先に田中耕一郎が、「センのような平等論者」が想定する「『自律的な自由を達成すること』の規範化(自由でなければ人間ではない)の限界」を鋭く批判していたことを想起したい。
こうした田中の指摘を踏まえたところでなお、注意深く参考にしていきたいのが沼田のいう現代の「人間の尊厳」の思想である(「注記」参照)。結論を先に述べれば、「リベラリズムの根底にある自由」を、生存のための『自由』として捉えることはできないだろうか。この点に係る「注記」の指摘を再確認しておこう。
すでに述べたように沼田は、現代における「人間の尊厳」の思想は、単なる「天賦人権の思想ないし啓蒙期自然法思想」の「再確認」ではなく、(人間存在の根源である生命を保障する観点を完全に捨て去った)ファシズム戦争によって、「否定」された「自由権」が、「生存のための『自由』であることを自覚することによって、抽象的な自由から具体的な自由へと発展したものとして理解している。そのことから、現代の「人間の尊厳」の思想は、「生存権的基本権」(人間存在の根源である生命の保障)をその基軸にすえ、「自由権の主体」が「生存権」の主体になることによって、「具体的に自由になる」と理解され、「人間の尊厳が自覚されるのは、このような主体=人間においてである」と述べている(沼田稲次郎はわが国の憲法13条ひいてはファシズム戦争を踏まえて策定された世界人権宣言の「人間の尊厳」をこのように捉える)。ブラック・ライブズ・マターの運動は、表現の自由(そして広く自由)を保障することの最も根底にあるのは、「生存を保障すること」であることを示している。
仮に、日本国憲法13条の「自由」を、生存のための(生存権的基本権を基軸に据えた)「(具体的な)自由」と捉えるなら、次に問題となるのは「生存権的基本権」にいう「生存」、すなわち「人間が人間として生きる」ことの内実を確定することになろう。
自律に押し潰されそうな人びとをその重みから解放することを推し進める「ケアの倫理」は、「個々人の生存にとって必要な他者の存在」を示唆している。
中島隆博もまた、「Human Co-becoming 他者とともに人間になる」という言葉を核にして要旨次のように述べている。「欧州起原の人間中心主義は再考が必要。理性に根差した自立した個人という強い概念は、近代の神話ではないか。人間はもっと不完全で弱い存在であり、公正な世界実現のために連帯しなければならない」と述べている(注24)。
中島がいうように、「自立した個人」(人は自らの力で人<自分という個>になる)という概念が近代の神話であり、「他者とともに人間になる」(いいかえれば他者の存在があって初めて人間は人間になる)のが、実体であることが承認されるなら、宇野のいう「リベラリズムの根底にある自由」と、さらにいえばリベラリズムと「人間が人間として生きる」という本稿(橋本)の視点は、かなり近距離にあることになるのではなかろうか。あるいは近距離に近づけることができるのではないだろうか。
なぜなら「他者とともに人間になる」という視点は、「個の存在」そのものを、あるいは「個の独自性」や「主体性」そのものを否定しているわけではない、からである。
この最後の部分に関わるところを、可能なところで補足していきたい。
河合は、西洋の<近代>が確立した自我(意識のあり方)は、人間の歴史のなかで必ずしも普遍性をもつものではないと指摘している(注25)。柄谷公人もまた、産業革命が始まる前は、人間と自然との間の「交通」(代謝)は、人間と人間との間の「交換」と同一視され、人間は自然と交換しているような見方がありえた。しかし産業革命以後、アニミズムが消えて、自然界は単なる対象でしかなくなったと述べている(注26)。
このようにみてくると、「他者(含む自然)とともに人間(「自立した個人」「主体性をもった個人」)になる」という視点の顕在化は、人間の意識のあり方についての「自覚(捉え方)」が今変わり始めていることを示唆しているのではないか。そんな風にも思えてくる。
雑駁にいえば、ソクラティス以前の「人間も生成消滅する自然の一部」と考えられた時代から、「まず人間ありき」と考えられるようになるルネッサンス期以降から現代に続く流れの中で今、環境問題を初め、災害、戦争、疫病の蔓延、高齢化や移民問題等々の課題を背景に、「個人」(他と切れた理性に根差した自立した個人)であるという認識が人びとのなかで変わり始めているのではないか、ということである。
ここで、「人間の尊厳」の理解と並んで注目されてきている「全体と個」の問題に一旦視点を移してみたい。
これまで全体と個の関係は、総じて全体(国家を含む社会とか集団)によって個(「自由人権主体としての個人」)が否定されないという視点から注目をあびてきた。内心の自由は、最高度に保障される憲法上の自由だとされ、国家や他者は自己決定の内実には直接かかわっていくべきではないと考えられてきた(考えられている)のもそのひとつである。
ここで唐突のようだが、「全体と個」の視点からみた「高齢者問題」「障害者問題」について、これまでの歴史の概略を追ってみたい。
ⅰ 高齢者や障害者を排斥することが、種族繁栄の最善の方法となる歴史社会の段階は、生産しない、食糧の貯蔵がない、医学がない、激烈な生存競争にさらされているという状況のもとにおける、しかも極度に生活環境の悪化した状態のもとにおいてであった、といわれている(注27)。
ⅱ もしそうであるとすれば、総じて高い経済成長に支えられてきた資本主義社会の国々において、「高齢者や障害者が生きること」が、「高齢者問題」「障害者問題」となってきた(なっている)のはなぜなのだろうか。ここでの課題との関りで突き詰めて言えばそこには、全体から切り離された「個」(自覚的主体的な個人)とそれを必要とした資本主義経済の「あり様」が関係していることは否定できないだろう。そこでは、「自覚的主体的な個人」が他者から侵害されないことが重視され、人間として生きる条件が「自由権」を中心に構成され、「人間として生きる」ことそのものには、視点が置かれにくい状況が生み出されてくる。問題はこのことに関係してくることになる。
上の②を参考に、これまでの「全体と個」の捉え方の変容を極めて簡単に指摘すれば
上ⅰの段階においては、「個」というものは十分には確立されておらず、個人のその属する集団に対する感情(「個人」としての意識)は「集団全体の善」の前に、埋もれていたと思われる。
上ⅱの段階においては、個は全体から切断された形で、いいかえれば「個々人は、自分自身によって個になる」という理解のもとに、「個」に対する全体(国家を含む社会とか集団)からの支配・抑圧の側面が重視されてくることになる、といえるだろう。では現状はどうであろうか。
災害、戦争、疫病、移民問題等々に悩む現状は、「人は、他者(含む環境)との関りなしに生きられない」(いいかえれば他者の存在があって初めて人間は人間になる)という視点を顕在化させ、明確化させてきているようにみえる(上記⑶参照)。このことは、全体(国家を含む社会とか集団)と個(人)の関りについての新しい理解を生み出す契機ともなっている、といえないだろうか。それ(他者の存在があって初めて人間は人間になるということ)は、「個があることは、全世界がそこにあること」、「個は独自性をもつが、他者(含む環境)なしには存在しえないこと」(注28)を示唆しているという意味において、「全体と個」の理解が新しい段階に入ったことを示しているように、筆者(橋本)には思われる。
「他者とともに人間になる」という視点は、「個の存在」そのものを、あるいは「個の独自性」そのものを否定しているわけではない。
先に触れたように河合は、「じねん」の中から本人の「主体が立ち上がる」という表現で、日本人のいわば「意志」形成のあり様のいわば「元型」を示唆している((注20)参照)。このことを「全体と個」の関係に引き付けて表現すれば、「他から独立した主体性」は、近代西欧みられるような、他(全体)から切断されることによって形成されるだけでなく、他(全体)に埋没していた個人が転換点を迎えて他(全体)から浮上することによっても確立されることを示唆している。
このように考えると、「他者とともに人間になる」(他者の存在があって初めて人間は人間になるということ)ことは、リベラリズムの根底にあるとされる「自律」の意味内容とも根底においては矛盾しないようにもみえる。少なくとも、松尾のいう「緊張関係」を緩めることにはなるのではなかろうか。
障害者権利条約に言うインクルージョンも、平等原則を超えて、全体(国家を含む社会とか集団)と個(人)の関りを「他者とともに人間になる」(他者の存在があって初めて人間は人間になる)という視点から捉えていくことはできないものであろうか。
「人間になる」になるのは、「当該個人」(ここでいえば「障害者」)だけでなく全世界の「他者」(ここでいえば「健常者」)でもあるはずである。人間が個としての生命の維持を超えて、他者の生命の維持を考えることの重要性に気づくことは、「人間の尊厳を自覚できる主体」の形成をも意味している。現代の「人間の尊厳」の思想を、単なる「天賦人権の思想ないし啓蒙期自然法思想」の「再確認」ではなく、(「生存権的基本権」<人間存在の根源である生命の保障>の基軸の上に、「自由権」を位置付ける思想)として捉える意義もここにある、と筆者(橋本)は考える。
そしてそれは、最適者生存を理由に「弱者」を一掃することを提案した社会ダーウィニズムの思想を乗り越えていく第一歩ともなるのではなかろうか。
リベラリズムの視点からも、「誰もが自律できるような社会」をともにつくることが指摘されている。障害者だけでなく「誰もが自律できるような社会」の実現は、障害者権利条約がめざすところでもあるはずである。
(注1)籾井常喜「社会保障法」p48 総合労働研究所 1972年
(注2)社会保障の法体系にはいくつかの考え方があるが詳細は略。障害年金法研究会発行のウエブジャーナル1号掲載の橋本宏子「補論 河野論文を受けて」をあわせ参照されたい。
(注3)前掲籾井 「社会保障法」p50参照
(注4)下山瑛二「人権の歴史と展望」p28ならびに前掲籾井 「社会保障法」p51参照
(注5)前掲籾井 「社会保障法」p49参照
(注6)同 p143
(注7)永野 仁美「目的から考える障害年金の要保障事由」p36 日本障害法学会編「障害法」6号所収
(注8)日弁連高齢者・障害者権利支援センター編「法律家のための障害年金実務ハンドブック」(以下「ハンドブック」ともいう)p148参照
(注9)「ハンドブック」p79
(注10)判決については、賃金と社会保障№1820参照 。
(注11)前掲(注2)の論文参照
(注12)斎藤幸平「人新生の『資本論』」p158 集英社 2020年
(注13)國分功一郎 熊谷普一郎「<責任>の生成―中動態と当事者研究」p32
(注14)同 p34参照
(注15)フェビエンヌ・ブルジェール「ケアの倫理」原山 哲他訳 白水社 2020年
(注16)田中 耕一郎「『ケアの制度化』をめぐって」 北星学園大学社会福祉学部北星論集第57号 2020年3月 上記括弧内の補足は橋本のもの。
(注17)森田 真生 「生命の網に生きる自分」 朝日新聞2021年12月17日 朝刊
(注18)國分功一郎「中動態の世界―意志と責任の考古学」医学書院 2017年
(注19)本稿(橋本)における河合の指摘は、個別に注記したもの以外、全体として河合隼雄『対話する生と死 ユング心理学の視点』(大和書房)の他、『河合隼雄著作集』(岩波書店 1994 所収)の論文に依拠しつつ、橋本の理解に基づき整理したものである。
(注20)河合俊雄編 河合隼雄「定本 昔話と日本人の心」 p394~395 岩波書店 2018年、河合隼雄「日本人の心を解くー夢・神話・物語の深層へ」岩波現代全書 2013年参照
(注21) 國分功一郎「近代政治哲学―自然・主権・行政」ちくま新書 筑摩書房 2022年
(注22)松尾 陽 「憲法 季評 ケアと憲法理念の緊張関係」 朝日新聞 2023年2月9日)
(注23)2023年11月27日 朝日 朝刊
(注24)分断のいま「普遍」を鍛え直す 朝日新聞 2023年1月10日 朝刊)
(注25)(注19)参照
(注26)柄谷行人ほか「柄谷行人『力と交換様式』を読む」p107
(注27)橋本宏子「老齢者保障の研究」p243 p268/注7 総合労働研究所 1981年 本文で述べたような社会、さらにいえば個人が社会全体に埋没していたような社会は、定住以前の初期の人類社会、すなわち獲物などの物は、直截に共同寄託され、分有されていた社会ということになろうか(柄谷行人ほか「柄谷行人『力と交換様式』を読む」p208参照)。なお検討したい。
(注28)八木誠一「宗教の行方」法藏館 2022年
1 「人間が人間として生きる権利」(生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利)について
⑴ 「自由」と「生存」
本稿(橋本)は、「障害年金における手続」を「人間が人間として生きる権利に支えられた手続」と位置付けた上で、すべての話を展開している。
そこで初めに、本稿(橋本)では「人間が人間として生きる権利」をどのように捉えているのかを、できるだけわかりやすく説明しておきたい。
ここでは「障害年金」の話と一見無関係にみえるが、ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter、略称「BLM」)を例にあげて、「自由」と「生存」のかかわりについての話の糸口をみつけてみたい。
周知のように「BLM」は、黒人に対する暴力や構造的な人種差別を訴える国際的な積極行動主義の運動である。「BLM」の運動にもみられる狭義の「集団示威行進」を含む「デモ行進を行なう権利」は、通常表現の自由に属すると考えられているが、ここで注目しておきたいのは、「表現の自由」と「生存」のかかわりである。「BLM」の運動の背景に、アフリカ系アメリカ人のコミュニティにおける白人警官による無抵抗な黒人への暴力や殺害の事実等々が深く関係していたことは良く知られている。つまりここで指摘しておきたいことは、表現の自由(そして広く自由)を保障することの最も根底にあるのは、「生存を保障すること」だということである。付け加えれば、ここでいわれる「表現の自由の保障を通じて、求められている生存の保障の要求」は、「『人間』の主体性と『生きる』という人間の最低必要条件を核として把握される」人間としての本源的自然発生的要求の発露に他ならないということである。
本稿(橋本)が、「人間が人間として生きる権利」を「生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利」として捉えるというときの「含意」は、上記にいう「生存の保障」の意味することと同じである。従って、「人間が人間として生きる権利」は約めていえば、「生存権」ということになるが、この点については⑵以下において少し説明を加えておきたい。
⑵ 憲法25条と生存権
わが国では通常「生存権」は、憲法25条で保障された「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と結び付けられ、「所得保障」(非金銭給付に対する金銭給付の意。以下同じ)にウエイトを置いたところで捉えられる傾向をもつ。従って、本稿(橋本)のいう意味での「人間が人間として生きる権利」を憲法25条から直截導き出すことはなかなか難しい状況にある。
⑶ 憲法13条(核規定としての「生存権的基本権」)と憲法25条(生存権)
① 本稿は、憲法13条の規定のされ方の中に、「自由権的基本権」の意味だけでなく、
積極的に生存配慮する「生存権的基本権」が含意されていると理解し、憲法13条を日本国憲法の基本的人権体系の核規定としての「生存権的基本権」規定と位置付ける立場に依拠している。積極的に生存配慮する「生存権的基本権」という発想が出てくる背景には、現代における人間の尊厳の思想が、単なる「天賦人権の思想ないし啓蒙期自然法思想」の「再確認」という意味だけではなく、「(人間存在の根源である生命を保障する観点を完全に捨て去った)ファシズム戦争の体験を経て世界が深く自覚させられた具体的な政治的・社会的原理」として捉えていることが大きく影響していると筆者(橋本)は考えている。
② 憲法13条に集中的に表現される日本国憲法の核規定としての「生存権的基本権」
は、本稿が提示する「人間が人間として生きる権利」(生命を機軸に据えた身体性をもつ具体的人間の生きる権利)と同義と考える。
③ 本稿の立場からは、憲法13条に体現される核規定としての「生存権的基本権」と各種「自由権」規定の関係、「生存権的基本権」と各種「生存権」規定との関係(狭義の「生存権」を「生存権的基本権」との関係でどのように捉えるかの問題もここに含まれる)が重要となってくる。
例えば障害年金給付は、憲法25条に基づく施策のひとつであるが、「障害年金給
付費」の意味内容を検討するにあたっては、憲法13条に体現される「生存権的基本権」の意味するところを重ね合わせたところで、憲法25条を位置づけていくことが求められるということになる。
本稿(橋本)の主題である「障害年金における手続」保障を考える場合も上の視点は貫徹される。具体的に説明すれば、「障害年金における手続」保障の問題は、憲法 14 条・ 31 条等に基づく平等権ならびに適正手続の問題であるが、本稿の立場からは、これらの憲法規定の根底に、憲法13条に体現される核規定としての「生存権的基本権」を基軸に置いて問題を捉えていくということになる。さらに補足すれば、社会保障法研究の泰斗である小川政亮教授はかつて、社会保障の権利(憲法25条の生存権)を実体的権利、手続的権利、自己貫徹的権利から捉えられたが、「障害年金における手続」保障において「生存権的基本権」(憲法13条)を基軸におくことの実質的な意義は、小川教授のいう「自己貫徹的権利」を「生存権的基本権」(憲法13条)の視点から捉え直し根底においたところで、憲法 14 条ならびに31条を解釈することに近いものがあるといえようか。
① ロックの自然法思想のもとでは、大まかにいえば「生存権」が根底にあって、自由や財産は「生存権」の保障のためのものであると考えられていたという。その意味では、先に「BLM」を例に説明した「自由」と「生存」の関係に近いところで問題が捉えられていたといえるだろう。
それが時代を下るにつれて、「自由」と「生存」は切断され、(生存のための)「自由」という視点を欠いたところで、「自由」だけがいわば独り歩きを始めていく。
なぜかわってしまったのだろうか。その点の経緯について、下山瑛二教授は、資本主義社会が成立する過程で、基盤となっていた「人権」概念の正当性の社会的論拠が無視され、その結果近代西欧の人権概念は、「自由権」を中心とする概念となり、(1870年代頃から普及してくる社会政策を通じて)若干の「生存権」的要求を充たすための「社会権」が加味されることになった、と述べている。
このような人権体系のもとでも、生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスを構築する努力が積み重ねられてきたこともみのがせない事実であるが、
資本制生産関係、すなわち、労働者の資本に従属する関係を保障する(「商品」としての労働力を保障する)ことの中に組み込まれた人権体系を考えることは、下山教授が指摘されるようにそもそも論理矛盾となり、「人権擁護」として、人権「一般」を擁護する意義は、そこからは生じにくいことも見落とすことはできない。
➁ 国連憲章・世界人権宣言等々の国際人権規範を系譜とする障害者権利条約は、「障害者と他の者との平等を基礎とすること」に力点をおき、各権利規定において、自由権的側面と社会権的側面を併記する形式が定式化されていることを除けば、「生存権」についての言及はない。このことからすれば障害者権利条約は、上記①で言及した「自由権を中心とし、それに若干の社会権を加味した構造をとる、特殊近代西欧社会の所産である『人権』概念」を継受している、とみることもできそうである。さらにいえば、上の「障害者権利条約は、自由権と社会権の両方を含んでいる」という理解と「基本的人権体系の中核に『生存権的基本権』を据える」という理解の間には、大きな違いがあることにも留意したい。
③ 他方障害者権利条約においては、人間の尊厳を最上位規範として(3条a)、「障害者の固有の尊厳の尊重」(1条後段参照)や「生命に対する権利」(10条)等々を、現代の「人間の尊厳」の思想としてどう具体化していくかが期待されている。
障害者権利条約が前提とする障害の理解について、障害者権利条約3条aにいう人間の尊厳を最高位規範と位置付ける人権モデルが、社会モデルでは捉えきれない障害問題の存在を指摘しながら、「人権モデルと社会モデル」を位相の相違として捉える「見解」を説得的に超えられない大きな理由のひとつは、人権モデルにおいては人間の尊厳の思想の理解が、単なる「天賦人権の思想ないし啓蒙期自然法思想」の「再確認」に留まっており、ファシズム戦争の体験を経て世界が深く自覚させられ、世界人権宣言にも反映されている(と捉えるべき)「人間存在の根源である生命を保障する観点」から、現代の「人間の尊厳」の思想を再構築していないことにある、と筆者は考えている。なお検討したい。